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長田弘の詩集のこと6

「バラッド第一番」の続き。

傷口のある頭で
かんがえる。
われ思う、
故にわれあり。
いやさ
われなきところで
われ思う、
故に
われ思わぬところに
われあり。
祝うべき
いわれはない。
いまここに
あることだって、
はげしい
冗談。

(「バラッド第一番」『長田弘全詩集』)

《われなきところで/われ思う、/故に/われ思わぬところに/われあり。》の5行について、晶文社版オリジナルには、注釈がついている。いわく《ラカンの定義。坂部恵『仮面の解釈学』による》。オーケー。『仮面の解釈学』には2009年に出た新装版があるが、僕の手元にあるのは1976年版で、長田もここから引いたものと思われる。では坂部恵の本から、該当箇所を探そう。1976年版だと184頁。第4部「しるし・うつし身・ことだま」の第1章「しるし」。

こうして、しるしの出現は、主体の不在あるいは死においておこなわれる。「われなきところでわれ思う、ゆえに、われ思わぬところにわれあり。」(ラカン「精神病の治療をめぐる二、三の問題」、『エクリ』所収)(『仮面の解釈学』、184頁)

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さて、ここで意外な困難に出くわす。これはもしかしたら新装版の『仮面の解釈学』では修正されているのかもしれないのだけど、ここからラカンに引用を遡ることができない。なぜなら、『エクリ』(Écrits)には、このタイトルの論文(ないし講演録)は収録されていないから。どういうことなんだ。フランス語版Wikipediaには、『エクリ』の項目があって、おおむね目次通りに解説されているのだけど、「精神病の治療をめぐる二、三の問題」にいちばん似ているタイトルは、"D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose"かと思う。でも、"D'une question"だから、「一つの(とある)問題について」だよね? 僕が間違ってるのかな? 『仮面の解釈学』が出た1976年には『エクリ』の邦訳はまだ出ていなくて、翌1977年を待たなければならない。で、1977年の邦訳『エクリ』第2巻に「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的な問題について」が訳出されている。ふつうに読めば、この邦訳タイトルでよいと思うのだけど、「二、三の」っていうのは、どこから出てきたのだろう? で、気を取り直して、この「問題について」をめくっても、該当するような箇所は出てこない。実は、これのひとつ前に収録されている「無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性」("L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud")に、該当箇所がある。

つまり、私が聴講のみなさんをちょっとの間まごつかせた言葉を、つづめて言えばこうです。私は、私の存在しないところで考える。それゆえ、私は、私の考えないところに存在する。この言葉が、機能を一時停止した耳という耳に聞かせてくれるのは、言葉の駆け引きをめぐる意味の輪が、ババ当てゲームの混乱のなかでどうやってわれわれの目を逃れていくかということなのです。
申し上げなくてはならないのは、私が私の考えにもてあそばれているような場所には、私は存在していない。私は私が考えると考えていない場所で、私がそうであるものについて考えている、ということです。

(『エクリ II』弘文堂、268-9頁)

このラカンの言明自体、なんだかよく分かんないなあ、というものだけど、ひとまず置いておく。とにかく、引用の引用に遡っていくと、滞る。この不可思議な(おそらくは意図されたわけではない)「経路の滞り」は、とてもラカン的な事態だと思うのだけど(というよりも、デリダ的かもしれない。『仮面の解釈学』ではデリダラカンが頻繁に参照される)、でも「バラッド第一番」にとっては、あまり重要なポイントとは言えない、かもしれない(し、重要なのかもしれない)。むしろ「言葉」についての詩集であり(そうでない詩集があるのか否か、知らないけど)「言葉」というシニフィアンをタイトルに持つ『言葉殺人事件』という詩集にとって、重要なポイントかと思う。ただまあ、今は、その点について議論している時間はない。だって明日、朗読会本番だし。

で、よく分かんない、ラカンの「我なきところで我思う、ゆえに、我思わぬところに我あり」ってどういう意味なのかだけ、かんたんに説明したい。できるかな。いちおう、チャレンジしてみる(詩にかかわるひとなら、これはあるていど理解しておいたほうがいいと思う。自分のものではない借りてきた言葉を扱うわけだから)。目標は一段落から二段落で。ラカンという精神分析家が画期的だったのは、人の心はシニフィアンでできている、という単純明快なテーゼですべてを解釈してしまったところにある(この考えは、フロイトにも遡れるけれど、フロイトの場合はもう少し要素が増える)。と言っても、ラカンの考えは、時期によってかなり変貌していて、それを追うだけで大変なことになるし、もともとのテーゼが単純であるほど、説明のプロセスは複雑怪奇になっていって、しまいには誰も理解できない、というところまで行ってしまう。が、ここでは、一般的によく知られている点に絞って説明する。まず「シニフィアン」って何かっていうことですが……signifiantです。これは「意味する」を意味する動詞signifierの現在分詞であり、「意味するもの(こと)」を意味する。英語で言うなら、signifyという動詞の現在分詞signifying(ただし記号論の文脈では、英語にはsignifierという用語があるので、字面だけなら、めちゃくちゃややこしくなる)。過去分詞もあって、これが「シニフィエ」signifiéで、「意味されるもの(こと)」を意味する。むかしラカンが輸入されたときに、ラカン理論に奇妙な、変な印象を与えたのは、ふつう、シニフィアンシニフィエシーニュ(signe)(日本語で言うと「記号」)のふたつの側面のことを言ったもので、そのうちシニフィアンだけ取り出してうんぬんするなんて、誰も考えていなかったから。Wikipedia「シニフィアンとシニフィエ」という項目でもそうなんだけど、だいたい、丸を描いて、横棒で分割して、木のイラスト(これがシニフィエ)と、「木」とか「tree」とかの文字が書いてあって(これがシニフィアン)、この結びつきのことを「シニフィカシオン」なんて言ったりした(ソシュールの言語論)。つまりシニフィアンというのは「言葉」とさしあたりは言い換えてもいいのだけど、どうして「記号」ではいけないかというと、シニフィエなき記号はないから。たとえば「豚」ってシニフィアンは、動き回る動物の豚を指すこともあれば、肉屋にならぶ豚肉を指すこともあるし、人のある種の態度や体型を指すこともある。なので、「豚」というシニフィアンが、「豚肉たっぷりのキムチ鍋が食べたい」という文脈で使われたとして、あなたがこの台詞を夕方スーパーマーケットで耳にして、その何時間後かに、上司に「この豚野郎!」と罵られる夢を見るかもしれない。なんてひどいことを、と思いつつ鏡を見ると、そこには豚に生まれ変わった自分の姿が、なんて悪夢かもしれない。

二段落で、と言いつつ、めっちゃ長い一段落になってしまった。こっからざっくり行こう。かように、シニフィアンはイマージュ(イメージ)に先行している。これがフロイトラカンの画期的なところ。ラカンの有名な区別に《想像界象徴界現実界》という概念がある。人はふつう、想像界(l'imaginaire)に生きている。机の上に本がある、とか、パンツのゴムがきつい、だとか、ああ彼のことが愛おしいわ、だとか、これはぜんぶ想像界のできごとだ。イマージュを「想像」と訳すから分かりにくいけど、「鏡像」のことである。と言い換えても分かりにくいかもしれないけど。基本的には、赤ちゃんがこの世に生まれて、はじめて獲得する「像」は、鏡に写った自分の鏡像である(精神分析的な比喩も含む)。それ以前は、いかなる「像」もない(未分化、という言い方をする)。で、自分の鏡像、という単純なイマージュからスタートして、世界を分化させていく。これが「発達」。この分化の過程で、不可逆的な、決定的に致命的な出来事が生じる。それが「言葉の獲得」、つまりシニフィアンの介入。これを精神分析では「去勢」という。いったん去勢されてしまうと、もう言葉の世界から出ることはできない。この言葉の世界のことを象徴界(le symbolique)という。ラカンの有名な言葉に「無意識は言語として構造化されている」というものがあるけれど、かんたんに言うと、人の無意識とは、シニフィアンのネットワークのことである、となる。この象徴界のことを、「大文字の他者」とか「ファルスの象徴」とか言ったりする。ラカンがAutreとAを大文字で書いたので、大文字の他者。小文字の他者は、これは別途《対象a》(たいしょうあー)と言う。ところで、この象徴界は、無意識というぐらいだから、人(自我)はアクセスできない。「大文字の他者が、S(主体)に背後から話しかける」というイメージで説明される。で、背後からAが話しかけた結果が、想像界=自我であり、ということは、「本があるなあ。腹減ったなあ。チキショー、あの女とセックスしたいなあ」などという、もろもろの自意識は、すべて象徴界の結果を映し出したイリュージョンにすぎない。まあ、意識は平均すると0.5秒、脳に代表される神経系に「遅れている」らしいしね。なので、「S(主体)」と言ったけれど、いわゆる世に言うところの「主体」なるものは存在しないので、「S」(フランス語sujetの頭文字)には抹消線(スラッシュ)が引かれる。坂部恵が《主体の不在あるいは死》と言ったのは、こうした事態。さて、この象徴界にも、ほころびがある。完全無欠な無矛盾的なシステムではない。その象徴界のほころび、「裂け目」を、《現実界(le réel)》という。たしか、斎藤環が、この三つの概念を、CGアニメに例えて説明していたと思う。想像界は、スクリーンに映し出されたCGアニメそのものであり、象徴界は、コンピュータ・グラフィックスのソースコード現実界は、そのプログラムを稼働させる、ハードウェア。うまい比喩かどうか、分からないけど。映画『THE MATRIX』なら、ネオをモーフィアスがMATRIXの外側の、現実世界につれてきたときに、「現実界の砂漠へようこそ」という。斎藤環によれば(記憶に頼って僕は書いているので違うかも)、第一作でネオが最後に覚醒して、縦にMATRIX世界のソースコードのようなものが流れていくのを見ることができてしまう。ネオは象徴界にアクセスする能力を持ってしまった、という話。ちなみにあれ、なんで縦に文字が流れていくのかというと、ウォシャウスキー兄弟が日本のパソコンは文字がすべて縦書きだと勘違いしたから、とされているのだけど、これ、真偽の程はどうなんだろう。

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ああ、長くなった、三段落目でかたをつけよう。とうぜん、想像界に生きている我々には、現実界にアクセスできないのだけれど、この象徴界にあいた穴、裂け目が、想像界に影を落とすことがある。これがさっき言った《対象a》である。これは簡単に言えば「特権的な欲望の対象」である。よく宮廷恋愛が引き合いに出されて説明されるけれど、ようするに成就してしまってはならない恋愛だ。成就したら、まあ、それはもう、欲望の対象ではなくなるよね。ここまで前提。あとは、有名な「シェーマL」を見ながら説明しよう(向井雅明『ラカン入門』を接写)。「我なきところで我思う」とは、まず第一には、さっき言ったようにSには抹消線が引かれる、ということを意味する。しかしながら、我々は「思って」いる、少なくとも「思って」いるような気がしているよね。それは想像界においてのことであり、自我(moi)においてのことである。ちなみにシェーマLの左下のaが自我。右上のa'から左下のaに引かれる線は「想像的軸」で、まあ、軸(axe)なんだけど、平面と理解されている。ちなみに右上のa'が「対象a」で、これが「欲望の原因」になって、自我に対してたえず働きかけている。もうひとつ、想像界というのは、我々が象徴界の結果受け取っているイリュージョンだった。ということは、「思って」いるのは、大文字の他者、シェーマLでいうと右下のAだ、ということもできるかもしれない。これは突っ込みすぎかもしれないけど。次に、「我思わぬところに我あり」とは、いくつか含みがあるとは思うけれど、第一には「私が『私がそこにいる』と思っているような場所には、私はいない。そうでない場所に私がいる」ということになろう。我々は、ふだん、シェーマLでいう、左上のSの位置に自分はいる、と思っている。が、そう思っているのは自我である(左下)。「私の思い」とは、欲望の原因にたえずそそのかされている、自我と対象aのおりなす想像的平面に浮かび上がるイリュージョンのことだ。ラカンは、そういう「私の思い」にもてあそばれているような場所には、私はいない、と警鐘を鳴らす(警鐘って、大げさだけど)。「そんなところにいるとは思わなかった」という意味で、まず大文字の他者、つまり象徴界ラカンは指し示しているのだとは思う。シェーマLで、右下の大文字の他者から、主体Sに向かって伸びる軸は、途中から破線になっている。これは、象徴界の呼びかけ、主体への関わりが、想像界によって妨害されていることを表している。だから我々は無意識(象徴界)の語りを聞くことはできないのだけれど、精神分析的なセッションなどで、手がかりを得ることはできる、ということになっている。さっき「突っ込みすぎかもしれない」と書いたけれど、無意識も含めて「我」なのだ、とすれば、象徴界大文字の他者に「我あり」という意味もあるのかな、と思う。間違っているかもしれないけれど。そして第二に、一般的に「主体」というときに考えられている、能動的で主体的な働きを、抹消線を引かれた「S」は奪われている。フランス語sujet、英語subjectは、「下方に投げ出された」ぐらいの意味で、「臣民・臣下」という意味がある。「奴隷」といってもいい。この主体は、受け取っているだけなのだから、「思って」いない。ゆえに、「思わぬところに我あり」なのだ、とも言える。

まだまだ含みはありそうだし、上に書いたことは間違いだらけかもしれない。ただまあ、「バラッド第一番」の先に進みたいので、このぐらいで勘弁して下さい。

(つづく)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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