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「一行という多行」補遺(『LOTUS』49号)

f:id:hidex7777:20220323174320j:plain 『LOTUS』49号(2022年2月)が届きました。特集は「多行形式の論理と実践〔評論篇2〕」。これは

  • 『LOTUS』47号(2020年12月)「多行形式の論理と実践〔作品篇〕」
  • 『LOTUS』48号(2021年8月)「多行形式の論理と実践〔評論篇1〕」

に続くもので、多行三部作をなすものです。
私は未補さんとの対談形式で「一行という多行」なる記事を寄せています(未補さんは47号に作品を寄せています)。

ところで、この「一行という多行」という対談の冒頭は、こうなっています。

未補 高柳重信は、《多行表記は、俳句形式の本質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである》(「批評と助言」『俳句評論』昭和四四年七月)と述べています。私には、重信が言おうとしていることの意味が正直よく分からなかったのですが……。斎藤さんは《俳句形式の本質が多行発想にある》という意味をどう考えますか?
斎藤 煙に巻くような微妙な言い回しですよね。「俳句形式の本質は多行形式にある」だと形式の語が二重になるから避けたのかもしれない。にしても「多行発想」って何(笑)。

ここで未補さんが引いている文章を、もう少し長めに引いておきます。

端的にいうならば、多行表記は、俳句形式の本質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである。したがって、俳句表現を、一本の垂直の棒の如きもの、として認識しようとする人たちには、もちろん、多行表記が存在し得るはずはないのである。まして、俳句形式について、如何なる洞察をも持たないか、あるいは、それを持とうとしない人たちには、はじめから、一行も多行も、それこそ、何もかもが存在しないのである。(高柳[1969→2009:276]、強調は引用者)

我々の対談は、重信を引用しつつ、それにしても「多行発想」という言葉が何を意味しているのか、これ(引用部分)だけ読んでも分からないよね、という認識からスタートしているわけです(じっさい、これだけ見ても、分からない)。ただ、こう言いつつも、おそらくあそこで重信が言っていることが、念頭にあるのだろうなあ、という見当は、なきにしもあらず。というかたぶん、十中八九、ここです。長めになりますが、引用しておきます。

金子兜太が、最近になって、いわゆる社会性俳句の一歩前進として、しきりに「造形」ということを説き、併せて諷詠俳句を否定したのは、きわめて注目すべきことだと思っている。何故なら、今日の詩にあっては、心象造形という芸術的操作の課程〔ママ〕が、詩的世界創造の不可欠な要件として存在することは自明の理であるし、心象こそは、思想を芸術に還元する唯一の媒体であることは周知の事実だからである。(中略)
 ところで、心象(イメージ)というのは、意味が心の中に描き出す絵画的な一つの世界である。(中略)
 造形とは、こういう心象を積み重ねて、一つの構造物を作ることである。それぞれの言葉は、それぞれの心象をえがく。そして、そうした言葉の集合の単位毎にも、やはり心象がえがかれる。しかも、そういう心象は、言葉の集合の単位から単位へと、次から次へと引き継がれ、次第に累積していって、最後に一つの作品全体の心象を形づくる。この場合、大切なのは、それらの心象が、より大きな包含的な心象に対して、常に合理的な一単位として存在していなければならないということである。もちろん、個々の心象と、それを集合する心象との合理的な連関を、一言にして説明することは困難だが、いわば、意味の上での一貫した論理性とか、心象形態の面からいえば、そのおのおのの色合とか影とか、乃至は匂いとか響きとか、そういう属性の中から引き出される一連の類似性や調和が、それに当るであろう。これは、丁度、あの蕉風の俳諧連句のすぐれた附け味と、非常によく似ている感じである。
 金子兜太のいう「造形」俳句が、果してどんな作品を目指しているのか、いまのところ明確でないのは残念だが、僕流に考えるならば、こういう心象造形による俳句作品は、当然に、多行形式に到達すると思っている。何故なら、言葉の集合の一単位としての心象は、当然に、それだけで明確な一行を形成すべきだし、次にあらわれる言葉の集合の一単位もまた、当然に、次の一行を形成すべきだと思われるからである。しかも、俳句のように、極めて短い詩型にあっては、他の詩の場合とちがって、それぞれの単独の言葉のもつ心象の効果を、いつも最大限に発揮せしめなければ、到底、複雑な思想を表現することは出来ないので、それらの言葉を出来るだけ際立たせるためにも、行を分けて、頻繁な断絶を設定し、言葉の連続性と不連続性との統一を考えるべきだと思う。(高柳[1956→1985:147-8]、強調は引用者)

ここで重信は《一つの構造物を作る》ことを《造形》と定義しているわけですが、おそらくこの定義が、「俳句形式」「俳句表現」の定義となってゆく、のでしょう。おそらく、ですが。

ところで、周知のように、先に引用した文章が書かれた翌年には、かの「『書き』つつ『見る』行為」(1970年)において、「発想」という発想そのものが、重信によって放棄されることになります。以前書いた文章でも引用した部分ですが、ここで再度引用しておきます。

 その『蕗子』に収められた作品について、いちばん、はっきりしているのは、それらが、まだ、本当に「書かれた」ものと言いがたい点であろう。それらは、要するに、書かれるに先立って、すでに、かなり明瞭なかたちで、ある種の既成の言葉になってしまっている。ある種の発想があり、それが、ある種の言葉と早々と癒着してしまった段階で、容易に俳句形式に出会っているのである。したがって、そこに出現する俳句形式は、いつも、何らかの意味で、すでに存在していたものであった。言い方を変えるならば、すでに存在している俳句形式のパターンのうち、どれか一つに出会った瞬間に、たちまち一句が成就してしまうような、あの発想と呼ばれるもの、あるいは、発想に先立つ感動などというものを頼りにして、それらは書きはじめられていたのであった。更に言い方を変えるならば、それは、作品を書きはじめるに先立って、すでに感じていた何か、あるいは、すでに見えていた何かについて、非常に大きな比重をかけ、むしろ、それを適当な言葉に翻訳するというかたちで、楽天的に制作を進めてゆくやり方であった。
 やや極端に言えば、そこに生まれてくるのは、書かれるに先立って、もう大部分が決定済みの世界である。言葉に書かれることによって、ただ一度だけ、はじめて出現する世界ではなかった。したがって、それは、外観的な大きな差異があったとしても、作者と言葉との関係から眺めるならば、俳壇で普通に「写生」と呼ばれているものと、まず大差はなかった。
(中略)
 これは冗談ではなく、『蕗子』以後の僕は、まさに文字どおり、言葉を書くだけであり、そして、きわめて稀に、そこに書き並べられた言葉のなかに、何かを「見る」だけであった。したがって、現在の僕には、発想というほどのものもないし、その発想に先立っての何ものかに対する感動のようなものもない。僕にとって、感動とは、時に言葉のなかに何かを見た場合の感情である。(高柳[1970→1985:181-3]、強調は引用者)

《『蕗子』以後》というわけですから、今回引用したみっつの文章のすべてに先立って、ということになり、そうすると《多行発想》なるものもじつはそう述べた時点ですでになかった、ということになりそうですが、しかしまあ、こう述べたのは1970年のことであり、1970年に重信がレトロスペクティヴにみずからの営為を記述し直した、と考えるのが適切でしょう。あるいはまた、「多行発想をしながら、しかしそれは『書く』ことをドライヴするためのものであって、『見る』ときには異なる観察者が出現するのである」というように整理できるのかもしれません。どのような立場で(たとえば「諷詠派」の立場で)書こうとも、発想しつつ書きつつ、書かれたものに驚き感動する、などということはありふれたことであって、私はよく(矛盾なく)理解できるのですが、どうなんでしょう。私だけでしょうか。