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長田弘の詩集のこと2

この一連の長田弘関連の記事では、原則として、長田弘の詩の引用は、ことわりがない限り、2015年の『長田弘全詩集』(みすず書房)からである(前回の記事でこのことを書くのを忘れていた)。10月2日に行われる朗読会も、この『全詩集』を典拠としている。なので、『言葉殺人事件』の「バラード」シリーズはすべて「バラッド」で統一される。忘れないうちに、朗読会のプログラムをメモしておこう。ついでに『全詩集』の該当するページも書いておく。「立ちどまる」[290]、というのは『全詩集』の290頁に「立ちどまる」という詩が掲載されているという意味だ。

  • プロローグ 「立ちどまる」[290]『世界は一冊の本』(1994年/2010年definitive edition)
  • 第一部
    • 深呼吸の必要』(1984年)
      • 「あのときかもしれない 二」[145]
      • 「あのときかもしれない 四」[149]
      • 「あのときかもしれない 八」[157]
      • 「あのときかもしれない 九」[159]
    • 『食卓一期一会』(1987年)
      • 「言葉のダシのとりかた」[177]
      • 「天丼の食べかた」[182]
      • 「ふろふきの食べかた」[188]
      • 「餅について」[190]
      • 「きみにしかつくれないもの」[194]
      • 「パリ=ブレストのつくりかた」[203]
    • 『言葉殺人事件』(1977年)
      • 「バラッド第一番」[138]
      • 「ひとの歯のバラッド」[113]
      • 「幸福なメニューのバラッド」[127]
      • 「何のバラッド」[100]
      • 「一冊の本のバラッド」[115]
      • 「戦争のバイエル」[103]
  • 休憩
  • プロローグ 「静かな日」[274]『心の中にもっている問題』(1990年/2015年新編修)
  • 第二部
    • 『詩の絵本』(3冊より構成される。以下の2冊のほか、『ジャーニー』2012年)
      • 「森の絵本」[277](1999年)
      • 「最初の質問」[283](2013年)
    • 『人はかつて樹だった』(2006年)
      • 「世界の最初の一日」[463]
      • 「森のなかの出来事」[464]
      • 「海辺にて」[471]
      • 「立ちつくす」[472]
    • 『世界はうつくしいと』(2009年)
      • 「世界はうつくしいと」[518]
      • 「蔵書を整理する」[530]
    • 『詩ふたつ』(2010年)
      • 「花を持って、会いにゆく」[545]

『全詩集』の655頁に初出一覧があるのだが、「2015年新編修」という言い回しが二箇所出て来る。『メランコリックな怪物』と『心の中にもっている問題』。「新・編集」でなく、「新・編修」。前回、これがどういう意味なのか、疑問を呈したけど、なるほど、分かった。『全詩集』のために編集しなおした、という意味だった。『メランコリックな怪物』からは、無視できない数の詩篇が削除された。『心の中にもっている問題』は、1990年版を持っていないので、今のところ、分からない。

さて、前回に引き続いて、Nursery Rhymeマザー・グース)と『言葉殺人事件』の関係を見よう。今回は、「友人のバラッド」[107]という、これは個人的にはかなり好きな作品なんだけど(朗読会では、時間の関係上、読まれない)、とても短い。短いので、いきなり長田バージョンの方を全文引用しておこう。

友人のバラッド

友人がいた。
丘の下に住んでいた。
まだ死んでなければ
まだそこで生きてるだろう。
ただひとりの
ぼくの友人。

(『長田弘全詩集』107頁)

オリジナル版も短いので、北原白秋の訳と、原文もついでに引用しておこう。

あの丘のふもとに

あの丘のふもとに
おばあさんがござった。
もしも去(い)なんだら
まだ住んでござろ。

There was an old woman
Lived under a hill,
And if she's not gone
She lives there still.

(北原白秋訳 まざあ・ぐうす)

長田が準拠しているNursery Rhymeは、オーピー夫妻によるオックスフォード版で、僕もこれを持っている。アンチョコとしては平野敬一『マザー・グースの唄』(中公新書、1972年)が面白い、というか、マザー・グースに関する研究書は本当に少なくて、40数年前のこの本にいまだに頼らなければならないという現状はどういうことなんだろうか、と思う(まったくなくはないのだけど、Amazon検索でもこれがトップだし、いまだに版を重ねている新書なので、一般的な書店で気軽に買えるのはこれぐらいじゃないかしら)。完全に余談だが、小学校で英語を必修化したら、アルファベット以外には、マザー・グースを徹底的に叩き込んで欲しいし、そうすべきだし、それ以外にはマジで何もやらなくていいよ、と思っている。

で、平野本によると、Nursery Rhyme(イギリス伝承童謡)の集成、という仕事で言うと、今までに三つの大きなポイントがあった。(1)18世紀後半のニューベリーの集成、(2)19世紀中葉のJ.O.ハリウェル、(3)20世紀、とくに50年代に入ってからのオーピー夫妻の研究と集成。この中で超絶にスゴイ仕事、と言えば当然オーピー夫妻、ということになるのだけど、ここではニューベリーの集成に着目してみよう。というのも、オーピー夫妻のオックスフォード版も、ハリウェル版も、まじめに正面から伝承童謡に取り組んでいる、学問的な仕事で、まあ、逆に言うと、面白みがない。もちろん集められた童謡はどれもナンセンスでおかしくてばかばかしくて、それを読めれば十分でしょう、とは言える。ただ、ニューベリー版には、なんとも言えない魅力がある。ただでさえ短くて意味がなくてナンセンスな(おっと、同語反復? でも「ナンセンス」の「センス」には「常識」という意味もある)童謡に、さらにナンセンスでふざけていてわけのわからない「注釈」が付されているのだ。で、どうやら、この「注釈」は、ニューベリーと親しくしていたオリヴァー・ゴールドスミスが書いたものらしい。一説には、ニューベリー版には、伝承童謡にゴールドスミスの創作も紛れ込んでいるという説もあるらしいのだが、これは定かではない。

さっき引用した「あの丘のふもとに」に対して、ゴールドスミスはこういう注釈を付けている:

これは自明の陳述であり、それこそ真理の本質をなすものです。〈彼女は丘のふもとに住んでいました。もし立ち去っていないようでしたら、まだそこに住んでいるはずです〉と。これにあえて異を唱える人はいないでしょう。

(平野敬一『マザー・グースの唄』33-4頁)

これについて平野は《ポーカー・フェースで自明のことを述べるのは、イギリスの童謡の一つの特徴だが、ゴールドスミスの注釈のまじめくさったおとぼけぶりは、注釈されている童謡とみごとに呼応するものである》[34]と述べる。はい。

また脱線するけれど、ゴールドスミスのばかばかしい注釈で傑作なのが「黒羊」の唄で、これは北原白秋の訳もあるけれど、谷川俊太郎訳もあるので、谷川訳を引用する(孫引きでゴメン)。

めえ めえ めんようさん
 ようもう あるの?
あるとも あるとも ふくろにみっつ
 ごしゅじんさまに ひとふくろ
 にょうぼのやつに ひとふくろ
もうひとふくろは みちのはずれの
ひとりぼっちの ぼうやのためさ
(平野敬一『マザー・グースの唄』37-8頁)

原文で"Baa, baa, black sheep,"というところを、北原白秋は《べああ、べああ、黒羊(ブラックシイプ)》とルビで韻を説明しているのだけど、谷川訳は、さすがに見事というべきか。ところで、この唄へのゴールドスミスの注釈は《教訓――悪癖は明日克服するより今日克服する方が易しい》(平野、38頁)である。もう、ナンセンスの競争というか、悪ノリがすぎるというか、伝承童謡と注釈が見事に響き合って(この黒羊の場合にはすでに共通・呼応する要素がひとつもない)、めちゃくちゃテンションが高い詩集を読んでいる気分になってくる。

かなり脱線したけれど、「友人のバラッド」に戻る。原文の、丘のふもとのお婆さんの唄は、自明なこと(トートロジー)以外のテクスチャーを持っていない。ように見える。そうでもないのかな。でもThere was an old womanというのは、日本の昔話でいう「昔々あるところにお婆さんがおりました」ぐらいの言い回しで、感情移入を許さないようなところがあるように思う。それに対して、長田ヴァージョンには、抒情詩的なテクスチャーが持ち込まれている。

友人のバラッド

友人がいた。
丘の下に住んでいた。
まだ死んでなければ
まだそこで生きてるだろう。
ただひとりの
ぼくの友人。

(『長田弘全詩集』107頁)

ここで特権的なテクスチャーを持つフレーズは、「友人がいた」「ただひとりの/ぼくの友人」というたった3行の文で、それ以外は「丘のふもとの老婆」と変わらず、関与する要素が入れ替わっただけである(去っていなければ、と言わずに、まだ死んでなければ、と言っているのは、どうか。これは原文のlives there stillのliveを「住んでいる」と解さずに「生きている」と解釈しなおすという、積極的な再構築が行われていると考えてよい)。

There was an old womanのan(不定冠詞)は、初出のテーマの紹介という機能を果たしているのと同時に、任意性も意味している。つまり、この唄の老婆は、「どこの誰だかは分からぬが、ともかく一人の」という属性を備えた人物であり、この唄を歌うときには、そのような属性を備えた、任意の誰かに対する態度が歌い手に発生する。それに対し、「友人」は、任意ではない。友人という一般名詞について語られているのではない。「友人」と言うとき、その人物の「どこの誰なのか性」というべき属性が、込められている。このとき、この詩を読む我々のうちには、否応なしに、特定のどこかの誰かに対する態度が発生してしまう。

かなり飛躍したことを言おう。僕の電波力をフルに発揮するなら、この「友人」とは、ポール・ニザンである(エビデンスはない)。1940年、ダンケルクの戦いから撤退するさなか、戦死した、エマニュエル・トッドの祖父、ポール・ニザンポール・ニザンへの長田弘の友情の念にかんしては、以前、別のところで書いた。僕の(電波力を最大限に発揮した推理にもとづく)考えでは、「バラッド第一番」の作中主体は、別の世界線のポール・ニザン、別の生を生きたポール・ニザンであり、また同時に長田弘であり、ポール・ニザンが死に損なった場合の、生まれ変わりとしてのニザン=長田である。これは(繰り返すが)エビデンスはないし、そうだったらいいなあ、という願望でさえない。むしろ、読者としての僕の電波力を音叉のごとく響鳴させる「バラッド第一番」の圧倒的な強度のもたらす、そうとしか思えない、という、幻想的確信である。

ということを書くからには、次回はいよいよ「バラッド第一番」について書くのかというとそうでもないのであった。

(つづく)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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