orangeProse別館

orangeProse(本ブログ)の補助

長田弘の詩集のこと4

※この一連の長田弘にかんする記事での引用は、ときに断りのないかぎり、2015年『長田弘全詩集』(みすず書房)を典拠とする。10月2日の朗読会も、本『全詩集』を典拠として行われる。したがって、『言葉殺人事件』の「バラード」シリーズはすべて「バラッド」で統一される。

さていよいよ『言葉殺人事件』所収の「バラッド第一番」に触れよう。先日、「最近は『メランコリックな怪物』に夢中だ」というようなことを書いたけれども、それでも完成度という点で言えば『言葉殺人事件』が群を抜いて優れているし、静謐さ、可憐さ、緻密さ、端正さ、陽気さ、単純明快さ、複雑さ、リズムに韻律、ようするに我々が長田弘に求めうる、あらゆるものが、『言葉殺人事件』にはある。「静謐で端正なバランス」という点で言うなら、『人はかつて樹だった』(2006年)なんかは、かなりいい線いっているとは思う。けれど、この時期(21世紀)の長田の詩には、なんというか、言葉にできない「重し」のようなものがあって(「重み」ではない)、そこが、「エモい」というか。きちんと説明できないけれど。

『メランコリックな怪物』には、陳腐な言い方をするなら、「ヒリヒリとした精神の飢え」と「絶叫」と「吃り」がある(ああ、そうすると、これも「エモい」んだね)。たとえば《チキショー、チキショー》(「こわれる」『全詩集』64頁)なんて一行があるし、《プ、プ、プラネタリウムは幾度見ました?》(「言ってください」『全詩集』61頁)と吃るし、《言葉だ、おれの、孤児が孤児にはなしかけ/どもりが早口に喋りだす言葉、それきりだ。/嘘だと悲しげに首をふり、昨日/警官がおもいきりおれを殴った。》(「黙秘」晶文社版『怪物』55頁、『全詩集』では削除)のような美しく清潔で高貴な四行からなる連がある。『言葉殺人事件』にだって、それなりに、「クソ」だの「ファック」だのは出てくる(ファックはさすがにないか)。《くそジーザス/けつクライスト》っていう二行は、「バラードUSA」にあって、あれ? 『全詩集』だとこの作品は「クリストバル・コロンの死」と改題されて『メランコリックな怪物』に入っているぞ。なるほど、そういう方針ですか。

「バラッド第一番」の何がすごいのかというと、詩人が人生で最高潮の、絶好調の舌で・指で・脳で書いている、その手触りが伝わってくるところだ。音声の神と書字(エクリチュール)の神が、長田の背後にいて、同時に語っているようにさえ思える。当時は、ワープロだのパソコンだのを使って書いてはいなかったと思うけれど、いわゆる、指より言葉が速い、というゾーンに長田は入っている。ノリノリで書いている、そのノリがビンビン伝わってくる。僕の朗読譜には(あ、10月2日の朗読会では、僕がこれを読むのです)「ドラムがはねるように」「氷のつぶがころがるように」とメモしてある。そういうイメージで読めたらいいな、という意味で書いたので、じっさいにそういう音で朗読できるかどうかは、また別なのだけど。

あくまでも「バラッド第一番」の作品としてのよさ、というのは、前述のとおりで、だとすると「元ネタ探し」なんて無粋、ということにもなりかねない、のだけど、『言葉殺人事件』の中でも最も複雑怪奇に「元ネタ」が絡まりあっているのも、この作品である。ただまあ、それを解きほぐすのも完全には無理そうなのだけど……。

f:id:hidex7777:20160920165111j:plain

バラッド第一番
     人間北看成南 黄庭堅

冒頭、タイトルの次にエピグラフがある。漢詩エピグラフに使うのは、本詩集の中では、他に墨子のものと李賀(李長吉)のものとがある。

いきなり黄庭堅のこのエピグラフからして、長田らしい、人を食った引用だと思う。もちろん原文は、《風急啼烏未了/雨来戦蟻方酣/真是真非安在/人間北看成南》という有名な六言絶句である(漢字は常用に直した)。ざっくばらんに訳すと、「風が急に来る。カラスが鳴き止まないうちに。雨が来て、蟻の戦いはまさにたけなわだ。絶対的な是だとか、絶対的な非だとか、いったいどこにあるのか。人の世では、北から見ると、南になるのだ」とでもなるのだろうか。中国の王朝も、それを真似た平城京平安京も、偉い人ほど北に住んでいた。北=身分の高い方角ばっかり見なさんな、という警句のニュアンスを読み取ることも可能だ、というか、そのように読まれてきた。ようするに「ゆく河の流れは絶えずして」みたいなことだと思う。たぶん。もちろん、そういう、もともとの詩にあった、警句としてのニュアンスを踏まえた詩として、「バラッド第一番」を読むことも可能ではある。

が、この結句《人間北看成南》だけを抜き出してみると、マザー・グース的なトートロジー、ナンセンス、無意味の感触が到来する。人間を北から見ると、その人は南にいるのだ。その人が北極にいるなら……観測不可能になるのだ……。ニューベリー版のマザー・グース集成で、ゴールドスミスが書きそうな注釈である。晶文社版の『言葉殺人事件』の巻末には、「注」と題された、あとがき兼典拠リスト(「元ネタ」ばらし)があったのだが、『全詩集』では「あとがき」と言える部分を残して、削除されている。これについて、『全詩集』の「編集について」では、次のように述べられている。

詩人は言葉の製作者ではなく、言葉の演奏家である。詩法の主要な一つは引用、それも自由な引用であり、変奏、変型、即興であることが少なくないこと、典拠のほとんどは、これまでのそれぞれの完成版にすでに挙げられていることなどを鑑み、屋上屋を架することを避け、詩篇に付随しているものをのぞき、はぶかれた。

(「編集について」『全詩集』654頁)

この言葉の前半部分は、『言葉殺人事件』のあとがきと、ほぼ同一のことを述べている(詩人は言葉を発明しない。詩は過去の言葉の自由なヴァージョンである、云々)。後半部分は、ようするに元ネタを知りたければ各自、完成版にあたれ、と述べていることになるのだが、これが容易ではない。この黄庭堅のエピグラフについて、晶文社版(完成版)『言葉殺人事件』の「注」では、四行のうち、二行を引いて、解説している。つまり《真是真非安在/人間北看成南》という二行を。この二行の引用と解説は、その意図を明瞭に示すものではないにせよ、《人間北看成南》という一行のみをポンと提示することに比べると、いくぶん、唐突さや、ナンセンスな感触が薄まる。とは言え、この「注」全体が、言ってみれば「警戒を要する」ように書かれている。「文字通り受け取ってはならない」と……この言い方も変なのだが。ゴールドスミスによるマザー・グースへの注釈が、文字通りに理解されることを拒むものであるのと同時に、マザー・グースの歌詞が、単に文字通りの意味以上の何ごとかをいささかも述べていない、というのと同様、『言葉殺人事件』において、長田は、詩から、文字通りの意味以上の何ごとかを読み取ることを禁じ、同時に、意味ありげなエピグラフやモチーフや単語があったとしても、文字通り受け取ってはならない、という命令を下している。

詩なんだから、当たり前だろ、と言えば、それまでなんですが。

(つづく)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

f:id:hidex7777:20160921230152j:plain