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長田弘の詩集のこと3

※この一連の長田弘にかんする記事では、とくに断りのないかぎり、2015年『長田弘全詩集』(みすず書房)を典拠とする。10月2日の朗読会も、本『全詩集』を典拠として行われる。したがって、『言葉殺人事件』の「バラード」シリーズはすべて「バラッド」で統一されている。

今回とりあげるのは、やはりNursery Rhymeマザー・グース)ネタの「そして誰もいなくなるバラッド」。言うまでもなく、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』も、この作品に響鳴を与えている。周知のように、アガサ・クリスティーの同作は、伝承童謡を使った「見立て殺人」ものであり、さらに孤島で行われる「クローズド・サークル」ものの大傑作である。10人いた客が、1人殺されて9人になり、次に8人になる。殺されたものは例の伝承童謡を連想させる死に方をしている。10個あったインディアン人形は8個に減っている。残されたものは、例の伝承童謡をなぞった「見立て殺人」が起こっていると気づく。「あの唄」の通りだとすれば、さらに殺人は続いていくはずだ……。

元になっている童謡もそれほど長いものではないが、長田バージョンはさらに半分ぐらいにカットして、とても短くなっている。全文引用しておく。

そして誰もいなくなるバラッド

とに革命、かに革命!

一人が叫ぶと、十人集まる

一人が青ざめ、九人になる

一人を吊るし、八人になる

一人が澱んで、七人になる

一人がくるう、六人になる

一人が転んで、五人のこる

一人が逃げる、四人のこる

一人が自嘲し、三人のこる

一人たばかり、二人のこる

一人は一人を打ち倒す

最後の一人を見たものはなし

そして誰もいなくなる

革命、夢の引算

(『長田弘全詩集』124頁)

『言葉殺人事件』にかんしては、『全詩集』への再録にあたって、様々な変更が加えられているのだが、この「誰もいなくなる」にかんしては、使用されるイラストの削除が印象を大きく変えている。『言葉殺人事件』は全編にわたってホセ・グアダルーペ・ポサダのイラストが使われているが(これが『全詩集』に使われなかったのも大きなことだが)、「誰もいなくなる」では、長田が元ネタに使っているオーピー夫妻のオックスフォード版集成からイラストを借りている。

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この歌の原文、

Ten little Injuns went out to dine;
One choked his little self, and then there were nine.

「食事に行ったら、1人は喉詰まらせて窒息」で始まり(引用はオーピー夫妻版から)、

Seven little Injuns chopping up sticks;
One chopped himself in half, and then there were six.

「薪を切りに行ったら、1人は自分を真っ二つ」

Two little Injuns sitting in the sun;
One got frizzled up, and then there was one.

「日向ぼっこしてたら、1人はジュージュー焼かれた」とろくな目にあわないのだが、最終的には

One little Injun living all alone;
He got married, and then there were none.

「残った彼は結婚し、そして誰もいなくなった」というわけで、結婚相手の女性(?)がイラストにあるのは、そういう意味なのだった。

長田バージョンでは、《一人たばかり、二人のこる》の下に2人がイラストで示され、《一人は一人を打ち倒す》の下に1人が示される。そこまではいい。たぶん、そのイラストの男が「打ち倒」した結果、勝ったのだろう。ところが次の連(行としては空行がある、ので、連としておく)では《最後の一人をみたものはなし》とあり、下には女のイラストがある。最終2連では、何のイラストも示されず、文字通り「そして誰もいなくなる」のである。ほんとうに《みたものはなし》なのだろうか。はじめにはいなかった女は、どこからやってきたのだろうか。消えた10人と、なんの関係があるのだろうか。

オリジナル版が、童謡らしい、ナンセンスな、ばかばかしい、ふざけた、脳天気な残酷さを歌っているのに対し、クリスティーのミステリは、この脳天気な残酷さを逆手に取った、不穏で不気味で、ホラーな雰囲気を醸し出すのに成功しているといってよい。長田ヴァージョンは、この2つの元ネタをカットアップ&リミックスし、「能天気かつ不穏」という奇跡的なテクスチャーを作り出すのに成功している。しかし、あの女は誰なんだ……(サークルクラッシャーかな?)。

ところでこのクリスティーの名作、1939年、イギリスで出版された当時は、Ten Little Niggers(10人の黒んぼの子)というタイトルだった。流行していた童謡のタイトルそのままだった。で、当然、アメリカではniggerというアフリカ系アメリカ人に対する蔑称が含まれるこのタイトルは使えず、And Then There Were Noneそして誰もいなくなった)と改題される。後に、イギリスでもこのタイトルに改題されることになる。邦訳もこれに準じているのだろう(邦訳タイトルが『10人の黒んぼの子』だったら何の小説か、さっぱり分からない)。

この"And Then There were ..."というフレーズは、英語の慣用句にさえなっている。前回もアンチョコに使った平野本によれば、新聞の見出しによく使われ、ボクシングでライバルの一方が倒れると「そこで一人になりました」だし、環境汚染である生物が絶滅すると「そこでゼロになりました」である(平田[127頁])。元の童謡の最終行は、すべてand then there were ... で終わっている(oneが主語のときだけwas)。ゼロはnone(否定主語)。英語には否定主語があるから、こういう統一ができる。「バラッド第一番」から借りれば、

あゝ、
始末がわるいよ。
おれたちの言語には
否定主語がねえんだよ。

(『長田弘全詩集』139頁)

ということなのだった。北原白秋もこの歌は訳していて、最終段落のみ、言い回しが変わっている。

十人のくろんぼの子供

十人よ、くろんぼの子供が十人よ。
おひるによばれてゆきました。
ひとりがのどくびつまらした。
そこで、九人になりました。

(中略)
三人よ、くろんぼの子供が三人よ。
こんどは動物園へいったれば、
くまめがひとりをひん抱いた。
そこで、ふたりになりました。

ふゥたりよ、くろんぼの子供がふゥたりよ。
かんかん日だまりィすわりこみ、 ひとりがちぢれてやけしんだ。
そこで、ひとりになりました。

ひィとりよ、くろんぼの子供がひィとりよ。
いよいよ、たったひィとりよ、
その子がお嫁とりにでていった。
そこで、だァれもなくなった。

(北原白秋訳 まざあ・ぐうす)

伝承童謡と言ったが、この歌に関しては、作者が判明している。原作は1868年、アメリカ人セプティマス・ウィナーによって作詞・作曲された。タイトルはTen Little Injuns(10人のインディアンの子)。同年末、もしくは翌年、イギリス人フランク・グリーンによって翻案される。タイトルはTen Little Nigger Boys(10人の黒んぼの子)。で、翻案であるはずのイギリス版の方が、有名になってしまった。これはもちろん、ポリティカル・コレクトネスから言ってまずいので、イギリス版はやがて消え、オーピー夫妻の集成でもInjunsになっている。ポリティカル・コレクトネスから言うなら、injunというのもまずいので、Wikipediaによると、1940年代以降はTen Little IndiansもしくはTen Little Soldier Boysに変更されている。クリスティーの悪名高き新訳で「インディアン島」が「兵隊島」になっているのは、原作もそのように改変されているためだ。

次回はできれば「バラッド第一番」に入りたい。

(つづく)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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