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【朗読】ラジオ番組「朗読 一語一絵」がはじまります(出演予定)

Dendritically Generative Withered Bough #2 by Hideo Saito on 500px.com

【追記2017.03.30】2017年4月から再放送の日時が変わります。

新年の抱負じゃないけど、今年は朗読について、はてなブログで一定のドキュメント化をしていきたいと思っているきょうこのごろです。

というのも、日本の「声を発する業界」(歌や演劇や、なんやかや)には「ドキュメント化する努力」が決定的に欠けていると思うからです。スタニスラフスキー・システムの名をあげるまでもなく、舞台演劇からハリウッドまで、世界的には、徹底したドキュメント化の努力の上に、現在が位置します。日本にも鴻上尚史のような人はいますが。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」であります。身体芸術に範囲を拡げれば、ウィリアム・フォーサイスもいます。朗読の世界でこれをやったのは、杉澤陽太郎氏ぐらいなものです(東百道氏を軽視するわけではありません。あれはあれで、必要な努力だと思います)。

その杉澤メソッドの普及に務めるべく、われわれ「ふくしま現代朗読会」は日々努力を重ねています。

さて、福島県本宮市のローカルFM局・エフエムモットコムで、朗読の番組「朗読 一語一絵」がはじまります(もうはじまってる)。ぼくも春ぐらいに読みます。江戸川乱歩を読むつもり(師匠の許可は得ている)。

エフエムモットコムはCSRA(Community Simul Radio Alliance)で配信されているので、インターネットで聴くことができます。

放送は、

  • 金曜08時15分~28分
  • 再放送が火曜17時45分~
  • (2017年4月から)再放送が月曜18時45分~

朝のテレビ小説のあとにどうぞ(ああ、いま、「精霊の守り人」の裏になってるのか)。

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Processingでミュージックビデオを作ったぽ

いまさらだけど、ProcessingでMVを作ってみたので、プロセスを、自分用にメモ。

ReasonとAbleton Liveで楽曲を作り、SoundCloudにアップ。ジャケ写(カバーアート)は過去に自分が撮影したものを、フォトショで加工し、Processingでさらに加工した。この写真の別バージョンは、500pxに以前アップした:

Lake Inawashiro, evening by Hideo Saito on 500px.com

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今年買ってよかったもの(2016年)

お題その2「今年、買ってよかった物」

都落ちして8年が過ぎようとしていて、ぼくの消費の速度、消費ヴェロシティとでもいうべきものが、ガクンと音を立てて落下している。消費が生を充溢させるのではない。生の充溢の指標として、消費が機能するのだ。しかし、Spotifyに代表されると思うのだが、基本的には支出なしでほとんどのことを済ませられてしまう、という雰囲気に、急速に包まれてきている。むろん、Spotifyで音楽を聴いても、それは消費なのだが、ここではモノとして手元になにがしかが残る、というきわめてアナログな感受性について消費という言葉を使う。

明日のこと、未来のことなど考えても意味がない、生の「いま、ここ」が充溢し、みなぎっているのでなければ意味がない。「みなぎり」をありありと知覚するのだが、目には見えない。「みなぎった」というしるしとして、モノを残すのだ。ところが、モノなしで済ます生活が続くと、何も残っていない。あたかも自分の生が充溢していないかのような、倒錯した錯視現象が起きる。

などと書いていたら飽きてきたので、できるだけ「10選」になるようにまとめる。

最果タヒ『グッドモーニング』

はじめて最果タヒを読んだときの「わからなさ」にともなう感情は、ぼくにとっては、「悔しさ」だった。一読して、語彙の上でも統辞構造の上でもきわめて馴致された言語使用が行われている、かのように見える。異常なまでに可読性が高い。ベタな言い方をするなら、若い女の子のブログの文章みたいだ、というのが第一印象で、これが詩として多数の読者を得ている、という現実に、自分のマインドがついていけなかった。悔しかった。子どもが、重厚な文学作品に対峙したときみたいに、「わからない自分」が嫌になった。詩に対して「わかる/わからない」みたいな粗雑な言葉を使うことには極めて慎重であるべきだが、端的に「わからない」と愕然とした。

この「わからなさ」は、それほど多くない時間が解決した。すぐに、過剰に可読性が高められた見せかけが、連辞の凶暴なゆらぎの隠れ蓑になっていることに気づく。

ところでこの「過剰な可読性」は、第一詩集の『グッドモーニング』でははじめから放棄されている。したがって、詩としては、彼女の作品としてもっとも読みやすい(非常に逆説的なことを言っているが)。簡単に言えば、「現代詩っぽい」見た目をしている。記号の多用、改行の唐突なリズム、反復、閉じられない多重の括弧。とはいえ、そうした見た目のもたらす安心感に気を抜いていると、とたんに精神をえぐられる。注意して、繰り返し読まなければならない。

(↓このぐらい、「ああ、現代詩ですね」という感じで、読みやすい)

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マット・ピアソン『[普及版]ジェネラティブ・アート』

いまさらかもしれないが、Processingにハマった。ジェネラティブアートがこれまでのアートにとってかわる世界が来る、などとはまるで思わないが、ジェネラティブアート以降、ということを意識しない世界もまた、ありえないだろう。

牛尾憲輔『a shape of light(映画「聲の形」サウンドトラック)』

今年の消費動向で特異的だったのは、映画の動員数だ。作品があれば、人は映画館に行く。とはいえ「この世界の片隅に」だけは、この文章を書いている時点で、まだぼくの地元に来ていない。というか、「シン・ゴジラ」「君の名は。」「聲の形」「この世界の片隅に」という爆発的驚異的ヒット作のうち、後の2作品は、高速道路を車で飛ばさないと見れない。

それはともかく、今年のチャンピオンは「聲の形」だ。そしてagraphこと牛尾くんが、今年のチャンピオンだ。映画のパンフレットで山田監督とイチャイチャしやがって。末永くお幸せに。

石野卓球『LUNATIQUE』

官能性をテーマにつくられたというフルアルバム。すこしメランコリックなモードで、跳ねた音色のコードが、跳ねたリズムで飛び回る。ようするにイビザ感にあふれている。Sueno Latinoによって天空に放り投げられたあなたなら、あるいはE2-E4によってカーペットの粘土の沼に沈みこんでいったあなたなら、ぶっ飛べること確実な佳作。

上坂すみれ『恋する図形(Cubic Futurismo)』

作詞者自身による、渾身の連ツイ解説を参照のこと。

ユリイカ臨時増刊号 ダダ・シュルレアリスムの21世紀』

ダダ100周年、アンドレ・ブルトン生誕120年/没後50年、ということで、本来ならダダの再評価で盛り上がってもよさそうなものだったが、案の定、この国ではダダは過小評価されている。この臨時増刊号も、特集名とはうらはらに、ほぼシュルレアリスムに紙面が割かれている(と感じるのは、判官贔屓によるものかもしれない)。

北山研二「デュシャンとダダ」だけでも読むべきだ。デュシャンがいなかったら、20世紀なんて存在しなかったも同然だ。分かりきったことではないか。馬鹿馬鹿しい。

LogicoolのキーボードK750R

アイソレーションタイプのキーボードで、打鍵感がすばらしい。ソーラーバッテリーで、USB無線で、ちょっともう、これなしではモノを書くことが考えられない。

ブレット・コントレラス『自重筋力トレーニングアナトミー』

去年末から筋トレを続けていて、もちろんウェイトトレーニングを中心にやっているのだけど、ワークアウトの締めに、体幹をオールアウトにもっていくには、やはり自重トレーニングは重要だ。これ一冊あれば、レパートリーに困ることはない。ジムに行っていないときにも、体幹だけは(へばりやすく、回復しやすいので)絶えずいじめる癖をつけておくべきだ。

岡田隆・石井直方『ウェイトトレーニングビッグスリー再入門』

きわめて基本的なビッグスリーの入門書。熟練者にはものたりないようだけれど(Amazonレビューを見るに)、まったくの初心者としては、DVDで細かく理論的に教えてくれる本書がありがたかった。

BlutoothのイヤホンQY8

ジムではずっとこれを使っていた。まあ、これじゃなくても、ブルートゥースイヤホンならなんでもいいとは思うけど。TUT(Time Under Tension)の自作タイマー音源、TABATAタイマー、あとたまにエアロをやるので、ニーナ・クラヴィッツのDJなどを聴いていた。

『MONKEY Vol.9』

「短編小説のつくり方」という特集だけれど、ハウツーものではない。たくさん短編が載っている。グレイス・ペイリーの未訳だった短編が、翻訳されているので、それだけでも買いでは。

村上春樹『女のいない男たち』

今年は小説が不作、というわけでもないけれど、去年買った本ばかり読んでいた(一番読んだのは長田弘の『長田弘全詩集』だった)。

村上春樹のこれも、文庫化するのを待っていた、というわけでもなく、まだ読んでいないなあ、と思っていたら、文庫化されてしまった、という感じ。一読、微妙な感じがしたのだが、数年後には名作になっているような雰囲気をもっている。変な褒め方だけど。一読微妙なんだよ。あれえ、っていう。でも、ここ数年の春樹って、だいたいそんな感じではなかったかな。BOOK4は出ないんですかね。来年2月に長編が出るみたいだけど。

特別お題「2016年を買い物で振り返ろう」 sponsored by 三菱東京UFJ-VISAデビット

ネットプリント毎月歌壇に短歌が掲載されました(2016年11月号)

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先月は谷川電話さんにとっていただいたのだけど、今月号では石井僚一さんにとっていただいた。

  • 淋しいとラジオが沈む海があり胎内が星くずで満開 斎藤秀雄

「ネットプリント毎月歌壇」の今年度の選者は石井僚一さんと谷川電話さん。

11月号は11月20日発行で、全国のコンビニで一週間限定でプリントアウトできます。

先月も書いたのだけど、「ネットプリント毎月歌壇」は選評が素晴らしく、「選評芸」と呼んでも過言ではない、エンターテイメント性を備えていると思う。短歌なんて知らないよ、という人でも、読んで面白いだろうと思う。

先月、谷川電話さんにとっていただいた歌は、

  • 無調整豆乳といふ破裂せる乳房のごときもののうたかた 斎藤秀雄

というもので、谷川さんは《かっこいいぜ》と評してくださった。また、《語り手の内面をほとんど読み取ることができない》ところが《好きな理由》とも言っていた。今月の「淋しいと」の歌に比べると、先月の「無調整」は、「内面」が、ちゃんと言えば「思考」が、希薄というか、別に隠しているわけではなくて、なんというか、「欲望」がダダ漏れなところがあって、かっこつけていうと「自分の欲望を何かに託すのではなくて、そのまんま写生した」というところがある。だから、《感情や思考》が表現されるわけはなくて(欲望には感情が伴うことがあるけれど、欲望自体は感情そのものではない)、《わかりにくい》ものであるのは、しょうがないと思う。でも自分の欲望そのものの写生だから、自分にとって大切な歌になっていて、「無調整」の歌を投稿するのは、勇気がいった。自分では「なんでかわかんないけど、めちゃくちゃ良い」と思う歌なので。だから、谷川さんにとっていただいて、非常に嬉しかった。

今月の僕の歌:

  • 淋しいとラジオが沈む海があり胎内が星くずで満開 斎藤秀雄

について、石井さんは《…内側から発光するような印象を受ける。沈んでしまったとしても生命は輝き続ける。この歌の声はそういう肯定的なメッセージを光とともに発している》と評してくださった。この評も、嬉しい。「無調整」の歌に比べると、分かりやす……くはないんだけど、それでも僕の感情とか思考とか、そういうものに「沿って」いると思う。「欲望の写生」ではなくて、心の中を流れていく思考/感情の経路に従ってイマージュを接続していっている、そういう歌ではないかなあ。

「淋しい」という感情語を書けたのは、最果タヒさんのおかげだと思う。最果さんの詩に「さみしい」ということばが出てきたからといって、書いている人に「さみしい」という感情が伴っているわけではなくて、それは最果さんのブログとかインタビューとかを読んでもらえれば分かると思うけれど、感情語って、「愛」とかと同じで、抽象的じゃないですか。で、僕の場合は、こういうエクスキューズ(「最果タヒだって書いているんだから、書いていいじゃないか」みたいな)を入れないと、まだ、たぶん書けないのではないかなあ、と思っている。

この歌の最後、《星くずで満開》は、もともとは、たぶん《星くずでいっぱい》と書いたんじゃなかったかな。記憶が曖昧だけど。《いっぱい》だと陳腐だから、《満開》にしよう、と書き直したような気がする。《この歌の声はそういう肯定的なメッセージを光とともに発している》という評は、この歌を僕が書いたときに考えていたことよりも、もっと正確に、僕の考えていた(感じていた)ことを表現していると思う。

きみは「はてなブロガーに5つの質問」にこたえるぼくが好き

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はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン

はてなブロガーに5つの質問」

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

はてなユーザーになってから13年ぐらい経つけれど、ブログは別のところのを使っていた。昔、ダイアリーは使っていたが、新しい環境が欲しかったので、移行した。いろんな分野について雑多に書き散らしていたのだが、技術的記事は関係ない人にとってはほんとに関係ないよなあ、とか、いろいろと思うところがあって、切り離すことにした。それで2年前にはてなブログを使い始めた。が、結局、技術ブログにならなかった。ググれば分かるし、Qiitaもあるし、自分が書く必要もないよなあ、と思って。きっかけはそんな感じ。

2. ブログ名の由来を教えて!

2012年にはじめた本ブログのタイトルが「orangeProse」で、そこから切り離したものなので、「別館」。

1996年ぐらいにはじめたテキストサイトがあって、元々は「Isolationism」というタイトルだったのだけど(アンビエント・コンピレーションにそういうタイトルのアルバムがあって、そこからとった)、後に「orangeProse」と改名した。

英語に"velvet prose"という言い回しがあって、「ゴテゴテと飾り立てた散文」みたいな、あまりいい意味で使われない言葉かもしれない(し、そうでもないのかもしれない)。この言い回しを改変したのが「orangeProse」。

"orange"を使った理由はたぶん、ふたつあって、ひとつは、Macを買い替えたときにちょうどクラムシェル(スケルトンカラー)のiBookが発売されて、タンジェリン・カラーのものを買った、ということ。タンジェリンにした理由は、タンジェリン・ドリームが好きだったから。というのはあと付けの理由で、本当はソフマップでタンジェリン・カラー以外が売り切れていたから。

もうひとつは、"orange"はLSDの俗語でもあって、電気グルーヴも「ORANGE」っていうアルバムを出してますね。いま、あれ? と思って辞書をいくつか引いたのだけど、「orangeがLSDの俗語」と書いている辞書がひとつもないんですね。当時は書いてあったはず! いちおう、『リーダーズ』には"Orange Sunshine"が「LSDのオレンジ色の錠剤」と書いてあるのだけれど。おかしいなあ。幻覚を見たのかしら。

そのようなわけで、「orangeProse」は、サイケデリックな散文、ぐらいの意味でつけた。

3. 自分のブログで一番オススメの記事

さいきん、長田弘の詩集について連続記事を書いた。それが自分では気に入っている。でもなあ。詩とか、自分がやっている朗読とか、そういうのは本家ブログの方でふだんはやっていて、なんでこれだけはてなブログにアップしようと思ったのか、自分でもよく分からない。

4. はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

良かったことは、やはりMarkdownで書けると、超ハイスピードで書き殴れる。こんなことならはじめからはてなブログにしておくんだった、と後悔した。

気づいたことは、やはりMarkdownで書けると、超ハイスピードで書き殴れること。

5. はてなブログに一言

とくにありません。

そういえば、はてブのキャンペーンで分厚いパーカーが当たって、クソ暑い夏に届きました。ようやく最近役に立ってます。

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

長田弘の詩集のこと7

引き続き「バラッド第一番」について。この記事で終わるかな? ひとまず、前回の続きの部分を、少し長くなるが引用しておこう。

さてこそ、
三色スミレを肴に
そこの屋台で
冷酒をやろう。
あたたかな小便をしよう。
手帳と電話は
きらいだ。
疑いを疑い、
夜は
羊の小腸をかじって
拳銃の詞華集を読む。
物語の中で人は死ぬ。
あっちにも石、
こっちにも石、
いたるところ墓だ。
うつむくか
横をむくか
怒鳴ろうか
仕事―言葉。
求ム―希望。
転ばぬさきの
知恵はない。
猫好き。
子供と
鳥打ち帽を愛す。
それからうつばりの塵飛ばす唄。
気が憂い日は
クルト・ヴァイルさん、
あんたの二束三文オペラをきく。
うそ寒い日には
ともかくも詩。
キューッと熱いやつ、
空っ腹にこたえる詩。

(「バラッド第一番」『長田弘全詩集』)

こう長く引用する必要があったのは、見れば分かるように《さてこそ、/三色スミレを肴に/そこの屋台で/冷酒をやろう。》というフックが仕掛けられてから、その響鳴の対象としての《うそ寒い日には/ともかくも詩。/キューッと熱いやつ、/空っ腹にこたえる詩。》が登場するまで、あいだに25行もあるからだ。詩を書いたり読んだりするとき、このような仕掛けはすぐに思いつくし、すぐに気づく。あいだに何行あっても、気づく。これは考えてみれば不思議な話だ。それから、《三色スミレ》はもうひとつの響鳴対象を持っているのだけど、もう少し後でこれに触れる。語義の解説をすると、《うそ寒い》とは「薄寒(うすさむ)」「うすら寒」のことで、俳句では【うそ寒】が晩秋の季語になっている。ちなみにスミレ(【菫】)は三春の季語。

あとは細かく見ていく。

手帳と電話は
きらいだ。

《手帳と電話は/きらいだ。》とは、長田弘の自己紹介。ちなみに、晶文社版『メランコリックな怪物』と『言葉殺人事件』の表紙の内側(いわゆる「表2」)には、ほぼおなじ文言が使われている:

長田弘 路上派。困難な時代の歌をうたって新しい世代に大きな影響をあたえてきた。詩集『メランコリックな怪物』など。きらいなもの、手帖と電話。好きなもの、コーヒーとキャベツとフクロウ。兎年。詩を読まぬ人びとのために詩を書くことが、この詩人の仕事である。

(『言葉殺人事件』)

『メランコリックな怪物』の方では、とうぜん《詩集『言葉殺人事件』など。》となっている。他に、《手帖》が《手帳》になっている。ちなみにこの記事を書いている僕も手帳と電話は嫌いである。

疑いを疑い、

《疑いを疑い、》という言い回しは、いちど《いやさ》と否定された(前回記事を参照デカルトの態度を思い起こさせる。私は考えている、いや、考えさせられているのではないか、と疑う、いや、疑っていると思い込まされているのではないか、と疑う、というコギト。

夜は
羊の小腸をかじって
拳銃の詞華集を読む。
物語の中で人は死ぬ。

《羊の小腸をかじって》とは何だろう。たんなるソーセージのことか。元ネタ不明。

《拳銃の詞華集を読む。》はもっと不明。もっとも元ネタがありそうなフレーズなのに、不明。詞華集とは花束に例えられる詩のアンソロジーのことだが、長田が60年代に惹かれたという吉川幸次郎『宋詩概説』のことか(岩波文庫から復刊されている)。しかし《拳銃の》とは? 直後の行が《物語の中で人は死ぬ。》となっており、たんじゅんにミステリ小説のことかもしれない。『言葉殺人事件』には「探偵のバラッド」があり、晶文社版の注釈では《ケネス・フィアリング『大時計』に、一つの手がかりが匿されている》とされている(これってネタバレじゃないのか?)。『全詩集』に所収の「場所と記憶」には次のようにある。

また、新書版として当時刊行中だった『中国詩人選集』(岩波書店)の一巻をなす吉川幸次郎『宋詩概説』によって、宋詩につよく惹かれる。宋詩は、絶望や怨念の誘惑にすべらない。人生をながい持続とみ、静かな抵抗とみる。なかでも惹かれたのは黄庭堅。あらゆるものの価値が交替していった一九六〇年代という十年の時代の経験のなかで、宋詩を傍らに置いて読む日々がなかったら、後に、『言葉殺人事件』のような詩集を書くことはできなかった。

(「場所と記憶」『全詩集』627頁)

でもまあ「拳銃の詞華集」ではない。

あっちにも石、
こっちにも石、
いたるところ墓だ。

《あっちにも石、/こっちにも石、/いたるところ墓だ。》の「石」とは、「言葉」のことだろう。なぜなら、「言葉のバラッド」には《言葉だ、言葉が/きみの卒塔婆》というフレーズが出てくるから。このように、一つの詩のなかでの響鳴だけでなく、一冊の詩集のなかでの響鳴も鳴り響いているし、複数の詩集の時代を飛び越えた響鳴もある。たとえば「あのときかもしれない」と「花を持って、会いにゆく」の関係、「一冊の本のバラッド」と「蔵書を整理する」の関係などがそうだ(そういえば、明日の朗読会で、これらはすべて読まれますねえ)。

ただ、「石すなわち墓」という飛躍が楽しい。

うつむくか
横をむくか
怒鳴ろうか
仕事―言葉。
求ム―希望。
転ばぬさきの
知恵はない。
猫好き。
子供と
鳥打ち帽を愛す。

この辺も不明。たんに「どこかから無造作に引用してきた」という感触だけがあって、その感触とリズムとがあいまって、心地よさを生じさせている。

それからうつばりの塵飛ばす唄。

平安末期に後白河法皇によって編纂された、今様歌謡の集成『梁塵秘抄』。今様に熱中した後白河法皇は喉を痛めた、と史書にある、とWikipediaにあった。長田が参照しているのは佐佐木信綱校訂版。「梁塵」とは、名人の歌は梁の塵さえも飛ばした、とする故事から。

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気が憂い日は
クルト・ヴァイルさん、
あんたの二束三文オペラをきく。

晶文社版の注釈によれば:

クルト・ヴァイル(一九〇〇~一九五〇)。二束三文オペラ(Die Dreigroshenoper.音楽クルト・ヴァイル、詩ベルトルト・ブレヒト。レコード演出ロッテ・レーニャ、指揮ヴィルヘルム・ブルックナー=リューゲベルグ、演奏ベルリン自由放送、ドイツCBS盤による)。

とあって、数回前の記事で《この「注」全体が、言ってみれば「警戒を要する」ように書かれている》と言ったように、ここも何食わぬ顔で変なことを書いている。言及されているのはいうまでもなく、ブレヒト原作『三文オペラ』で、クルト・ヴァイル作曲の音楽劇である。Dreigroshenoperを直訳すると「3グロッシェン・オペラ」で、Groshenromanと言えば「三文小説」という定訳があり(英語でいうパルプ・フィクション)、Groshenblattと言えば「三文新聞」という定訳がある(辞書に)。ここの何が変なのかというと、「二束三文」という日本語の「取るに足らない」という意味の慣用表現と、「三文~」という慣用表現をごちゃに使っているところ……と解説するのも無粋なのだが。あまりにも何食わぬ顔なので、昔は「二束三文オペラ」と訳されていたのだろうか、と疑って、国会図書館で検索してみたが、日本に輸入・翻訳された当時から、『三文オペラ』である。これが何とも言えない微妙な感覚を産んでいるのは、そもそも「三文オペラ」と名付けられたのは、「取るに足らないオペラ」という意味をもたせたかったからで(ブレヒトの意図)、長田の「二束三文オペラ」という造語は、じつは、よりうまい訳、かもしれないからだ。でも、ねえ、「二束三文」まで言わなくたって、とは思う。

このあとに《うそ寒い日には~詩》という上で触れたフレーズが来る。続きはこうだ。

希みは芸術じゃない、
赤新聞も与り知らぬ
赤詩集一冊。
つまりは、
一つ覚えの二の舞いの
三角野郎にささげる
四面楚歌。
身は身でとおす
笠の内。
絶対に陽気でなければならぬ。
元気にしていて
ある日にはもう
死んでいるのだ。
北枕。
朝まで眠り、
怠ける権利がある。
ぼくは
サソリ座の兎にして
山猫スト主義者だ。
革命はない。
ない革命がある。
あゝ、
始末がわるいよ。
おれたちの言語には
否定主語がねえんだよ。
まったく
雨の降る日は
天気がわるい。
夢は、
三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。
それだけしか
いつも持ち合わせがなかった
いまも。

(「バラッド第一番」『長田弘全詩集』)

ここはひとつひとつ見ていこう。

希みは芸術じゃない、
赤新聞も与り知らぬ
赤詩集一冊。

色彩名が多用される作品は、『言葉殺人事件』だと、「戦争のバイエル」に次のようなフレーズがある。

赤をおそれ、
赤紙をおそれ、
赤心一ツ。
赤の他人の
赤子は遥かに死んだ。
すると、白い手が、
白旗を爪んだ。
白昼、
白々しくも
白をきって。

われわれの
旗。
……………
白地に赤い
死者の血。

赤と白のコントラストに「旗」ときて、「戦争のバイエル」というぐらいだから、どうしても日本の国旗を思い浮かべてしまう。ほのめかされているだけだとは言え。それに対し「赤新聞」とはどう考えても『赤旗』のことであろう。知らないけど。で、日本共産党が与り知らぬ赤詩集、と言われても、なんのことだかさっぱりわからない。中野重治の詩集じゃないよ、というのだけは確か。もちろん、ここに意味はない。

つまりは、
一つ覚えの二の舞いの
三角野郎にささげる
四面楚歌。

長田は色彩名だけでなく、数詞も頻繁に使う。まさにマジックリアリズムの先取りである。かどうかはともかく、例えばこの詩の最後の方は

三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。

で、やはり三二一と数詞が続く。上で保留しておいた《三色スミレ》の響鳴先としては、《二束三文オペラ》があり得るし、《赤詩集一冊》もあり得る。《一武器商人》が詩の冒頭で出てきたことも思い出す。もしかしたら、《三色》《二束》《一冊》という数詞のセリーなのかもしれない。

身は身でとおす
笠の内。
絶対に陽気でなければならぬ。
元気にしていて
ある日にはもう
死んでいるのだ。
北枕。
朝まで眠り、
怠ける権利がある。

ここはよく分からない。朝までしか眠らないのなら、怠けたことにならないのでは? という不条理さの感触。

ぼくは
サソリ座の兎にして
山猫スト主義者だ。

長田弘、兎年生まれのさそり座。山猫ストというのは、組合の認可を得ていないストのことで、一匹狼の印象を与える言葉。19世紀アメリカの「山猫銀行」が語源らしいが、山猫は一匹で行動し、遠吠えをするらしい。まあ、意味はない。

革命はない。
ない革命がある。
あゝ、
始末がわるいよ。
おれたちの言語には
否定主語がねえんだよ。
まったく
雨の降る日は
天気がわるい。

『言葉殺人事件』はマザー・グース色の強い詩集だが、この詩篇の中でマザー・グース色が強いのはこの部分。《革命はない。/ない革命がある。》を英語で言うと、There are not revolutions. There are no revolutions.で、どっちもほぼ同じ意味になる。が、日本語で「ない革命がある」というと変な日本語になる。ゆえに《あゝ、/始末がわるいよ。/おれたちの言語には/否定主語がねえんだよ。》ということになる。いくつか前の記事で書いたように、and then there were…というフレーズを、ゼロになるまで続けられる英語と違って、日本語ではゼロのときは「そしてだれもいなくなる」としなければならない。そういえば「そして誰もいなくなるバラッド」も、《とに革命、かに革命!》ではじまる、革命をめぐる詩篇だった。その意味で、「バラッド第一番」は、『言葉殺人事件』の「とてもぶっちゃけたあとがき」と言えるかもしれない。さらに、《雨の降る日は/天気がわるい。》というマザー・グーストートロジー! 徹底していて素晴らしい。

夢は、
三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。
それだけしか
いつも持ち合わせがなかった
いまも。

数詞、三・二・一が連続する点については先に触れた。《三界》とは仏教用語で「欲界・色界・無色界」のこと。あるいは「三千大千世界」のこと。1977年の晶文社版では、ここは《三がいの》と、漢字はかなに開かれていた。変更した意図は分からない。成人の人体の骨は過不足なければ208本らしいが、なんと個人差があるらしい。《一ツ身》とはふつうは乳児用の着物のことだが、ここでは一つの身体、という意味にもなっている。この手の、韻と字面を利用したダブルミーニングも長田が多用している手法で、たとえば「言葉のバラッド」だと《字書きの恥かき/やちほこの紙反古//おゝ、なんと/一切は一切れだ//日暮れの野暮は/もはやヘボ》みたいな、滑らかな「意味の滑り込み」というべきライムのノリがグルーヴを生んでいる。ところで、《やちほこの神》とは大国主命で、「神」が「紙」に掛かって、「反故紙」に掛かるのだけど、「神」の発音は「/カ|ミ」(頭高型のアクセント)で「紙」は「カ/ミ\」(平板式アクセント)であり、朗読という観点からすると、別の言葉なんだけどなあ、と思っていたら、「ブラタモリ」で、広島にある「白神社(しらかみしゃ)」の語源を説明していて、もともとは、船が座礁しないように白い紙を目印に立てていたらしい(広島は三角州で、遠浅の海がひろがる)。ということは、「紙」と「神」の混同というか、縁語関係は、わりと古くからあったのですね。

という感じで、「バラッド第一番」をめぐっていろいろ書いてきた。この作品の良さは、指より言葉が速い、というテンポ感にあって、いろいろ意味(シニフィエ)を探る営みは、無駄かもしれないし、無粋かもしれない。けれど、このテンポを生み出しているのも、「我なきところで我思う、ゆえに、我思わぬところに我あり」のような、一瞬、「え、何言ってるの?」と戸惑わせるような変な言葉遣いなのである。だから、何度口にしても心地よいし、僕なんかは暗誦してしまった。そういえば、ぼくにとって、生まれて初めての、全体を暗誦できる詩篇がこれなのだった。

(気が向いたらつづける)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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