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長田弘の詩集のこと7

引き続き「バラッド第一番」について。この記事で終わるかな? ひとまず、前回の続きの部分を、少し長くなるが引用しておこう。

さてこそ、
三色スミレを肴に
そこの屋台で
冷酒をやろう。
あたたかな小便をしよう。
手帳と電話は
きらいだ。
疑いを疑い、
夜は
羊の小腸をかじって
拳銃の詞華集を読む。
物語の中で人は死ぬ。
あっちにも石、
こっちにも石、
いたるところ墓だ。
うつむくか
横をむくか
怒鳴ろうか
仕事―言葉。
求ム―希望。
転ばぬさきの
知恵はない。
猫好き。
子供と
鳥打ち帽を愛す。
それからうつばりの塵飛ばす唄。
気が憂い日は
クルト・ヴァイルさん、
あんたの二束三文オペラをきく。
うそ寒い日には
ともかくも詩。
キューッと熱いやつ、
空っ腹にこたえる詩。

(「バラッド第一番」『長田弘全詩集』)

こう長く引用する必要があったのは、見れば分かるように《さてこそ、/三色スミレを肴に/そこの屋台で/冷酒をやろう。》というフックが仕掛けられてから、その響鳴の対象としての《うそ寒い日には/ともかくも詩。/キューッと熱いやつ、/空っ腹にこたえる詩。》が登場するまで、あいだに25行もあるからだ。詩を書いたり読んだりするとき、このような仕掛けはすぐに思いつくし、すぐに気づく。あいだに何行あっても、気づく。これは考えてみれば不思議な話だ。それから、《三色スミレ》はもうひとつの響鳴対象を持っているのだけど、もう少し後でこれに触れる。語義の解説をすると、《うそ寒い》とは「薄寒(うすさむ)」「うすら寒」のことで、俳句では【うそ寒】が晩秋の季語になっている。ちなみにスミレ(【菫】)は三春の季語。

あとは細かく見ていく。

手帳と電話は
きらいだ。

《手帳と電話は/きらいだ。》とは、長田弘の自己紹介。ちなみに、晶文社版『メランコリックな怪物』と『言葉殺人事件』の表紙の内側(いわゆる「表2」)には、ほぼおなじ文言が使われている:

長田弘 路上派。困難な時代の歌をうたって新しい世代に大きな影響をあたえてきた。詩集『メランコリックな怪物』など。きらいなもの、手帖と電話。好きなもの、コーヒーとキャベツとフクロウ。兎年。詩を読まぬ人びとのために詩を書くことが、この詩人の仕事である。

(『言葉殺人事件』)

『メランコリックな怪物』の方では、とうぜん《詩集『言葉殺人事件』など。》となっている。他に、《手帖》が《手帳》になっている。ちなみにこの記事を書いている僕も手帳と電話は嫌いである。

疑いを疑い、

《疑いを疑い、》という言い回しは、いちど《いやさ》と否定された(前回記事を参照デカルトの態度を思い起こさせる。私は考えている、いや、考えさせられているのではないか、と疑う、いや、疑っていると思い込まされているのではないか、と疑う、というコギト。

夜は
羊の小腸をかじって
拳銃の詞華集を読む。
物語の中で人は死ぬ。

《羊の小腸をかじって》とは何だろう。たんなるソーセージのことか。元ネタ不明。

《拳銃の詞華集を読む。》はもっと不明。もっとも元ネタがありそうなフレーズなのに、不明。詞華集とは花束に例えられる詩のアンソロジーのことだが、長田が60年代に惹かれたという吉川幸次郎『宋詩概説』のことか(岩波文庫から復刊されている)。しかし《拳銃の》とは? 直後の行が《物語の中で人は死ぬ。》となっており、たんじゅんにミステリ小説のことかもしれない。『言葉殺人事件』には「探偵のバラッド」があり、晶文社版の注釈では《ケネス・フィアリング『大時計』に、一つの手がかりが匿されている》とされている(これってネタバレじゃないのか?)。『全詩集』に所収の「場所と記憶」には次のようにある。

また、新書版として当時刊行中だった『中国詩人選集』(岩波書店)の一巻をなす吉川幸次郎『宋詩概説』によって、宋詩につよく惹かれる。宋詩は、絶望や怨念の誘惑にすべらない。人生をながい持続とみ、静かな抵抗とみる。なかでも惹かれたのは黄庭堅。あらゆるものの価値が交替していった一九六〇年代という十年の時代の経験のなかで、宋詩を傍らに置いて読む日々がなかったら、後に、『言葉殺人事件』のような詩集を書くことはできなかった。

(「場所と記憶」『全詩集』627頁)

でもまあ「拳銃の詞華集」ではない。

あっちにも石、
こっちにも石、
いたるところ墓だ。

《あっちにも石、/こっちにも石、/いたるところ墓だ。》の「石」とは、「言葉」のことだろう。なぜなら、「言葉のバラッド」には《言葉だ、言葉が/きみの卒塔婆》というフレーズが出てくるから。このように、一つの詩のなかでの響鳴だけでなく、一冊の詩集のなかでの響鳴も鳴り響いているし、複数の詩集の時代を飛び越えた響鳴もある。たとえば「あのときかもしれない」と「花を持って、会いにゆく」の関係、「一冊の本のバラッド」と「蔵書を整理する」の関係などがそうだ(そういえば、明日の朗読会で、これらはすべて読まれますねえ)。

ただ、「石すなわち墓」という飛躍が楽しい。

うつむくか
横をむくか
怒鳴ろうか
仕事―言葉。
求ム―希望。
転ばぬさきの
知恵はない。
猫好き。
子供と
鳥打ち帽を愛す。

この辺も不明。たんに「どこかから無造作に引用してきた」という感触だけがあって、その感触とリズムとがあいまって、心地よさを生じさせている。

それからうつばりの塵飛ばす唄。

平安末期に後白河法皇によって編纂された、今様歌謡の集成『梁塵秘抄』。今様に熱中した後白河法皇は喉を痛めた、と史書にある、とWikipediaにあった。長田が参照しているのは佐佐木信綱校訂版。「梁塵」とは、名人の歌は梁の塵さえも飛ばした、とする故事から。

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気が憂い日は
クルト・ヴァイルさん、
あんたの二束三文オペラをきく。

晶文社版の注釈によれば:

クルト・ヴァイル(一九〇〇~一九五〇)。二束三文オペラ(Die Dreigroshenoper.音楽クルト・ヴァイル、詩ベルトルト・ブレヒト。レコード演出ロッテ・レーニャ、指揮ヴィルヘルム・ブルックナー=リューゲベルグ、演奏ベルリン自由放送、ドイツCBS盤による)。

とあって、数回前の記事で《この「注」全体が、言ってみれば「警戒を要する」ように書かれている》と言ったように、ここも何食わぬ顔で変なことを書いている。言及されているのはいうまでもなく、ブレヒト原作『三文オペラ』で、クルト・ヴァイル作曲の音楽劇である。Dreigroshenoperを直訳すると「3グロッシェン・オペラ」で、Groshenromanと言えば「三文小説」という定訳があり(英語でいうパルプ・フィクション)、Groshenblattと言えば「三文新聞」という定訳がある(辞書に)。ここの何が変なのかというと、「二束三文」という日本語の「取るに足らない」という意味の慣用表現と、「三文~」という慣用表現をごちゃに使っているところ……と解説するのも無粋なのだが。あまりにも何食わぬ顔なので、昔は「二束三文オペラ」と訳されていたのだろうか、と疑って、国会図書館で検索してみたが、日本に輸入・翻訳された当時から、『三文オペラ』である。これが何とも言えない微妙な感覚を産んでいるのは、そもそも「三文オペラ」と名付けられたのは、「取るに足らないオペラ」という意味をもたせたかったからで(ブレヒトの意図)、長田の「二束三文オペラ」という造語は、じつは、よりうまい訳、かもしれないからだ。でも、ねえ、「二束三文」まで言わなくたって、とは思う。

このあとに《うそ寒い日には~詩》という上で触れたフレーズが来る。続きはこうだ。

希みは芸術じゃない、
赤新聞も与り知らぬ
赤詩集一冊。
つまりは、
一つ覚えの二の舞いの
三角野郎にささげる
四面楚歌。
身は身でとおす
笠の内。
絶対に陽気でなければならぬ。
元気にしていて
ある日にはもう
死んでいるのだ。
北枕。
朝まで眠り、
怠ける権利がある。
ぼくは
サソリ座の兎にして
山猫スト主義者だ。
革命はない。
ない革命がある。
あゝ、
始末がわるいよ。
おれたちの言語には
否定主語がねえんだよ。
まったく
雨の降る日は
天気がわるい。
夢は、
三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。
それだけしか
いつも持ち合わせがなかった
いまも。

(「バラッド第一番」『長田弘全詩集』)

ここはひとつひとつ見ていこう。

希みは芸術じゃない、
赤新聞も与り知らぬ
赤詩集一冊。

色彩名が多用される作品は、『言葉殺人事件』だと、「戦争のバイエル」に次のようなフレーズがある。

赤をおそれ、
赤紙をおそれ、
赤心一ツ。
赤の他人の
赤子は遥かに死んだ。
すると、白い手が、
白旗を爪んだ。
白昼、
白々しくも
白をきって。

われわれの
旗。
……………
白地に赤い
死者の血。

赤と白のコントラストに「旗」ときて、「戦争のバイエル」というぐらいだから、どうしても日本の国旗を思い浮かべてしまう。ほのめかされているだけだとは言え。それに対し「赤新聞」とはどう考えても『赤旗』のことであろう。知らないけど。で、日本共産党が与り知らぬ赤詩集、と言われても、なんのことだかさっぱりわからない。中野重治の詩集じゃないよ、というのだけは確か。もちろん、ここに意味はない。

つまりは、
一つ覚えの二の舞いの
三角野郎にささげる
四面楚歌。

長田は色彩名だけでなく、数詞も頻繁に使う。まさにマジックリアリズムの先取りである。かどうかはともかく、例えばこの詩の最後の方は

三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。

で、やはり三二一と数詞が続く。上で保留しておいた《三色スミレ》の響鳴先としては、《二束三文オペラ》があり得るし、《赤詩集一冊》もあり得る。《一武器商人》が詩の冒頭で出てきたことも思い出す。もしかしたら、《三色》《二束》《一冊》という数詞のセリーなのかもしれない。

身は身でとおす
笠の内。
絶対に陽気でなければならぬ。
元気にしていて
ある日にはもう
死んでいるのだ。
北枕。
朝まで眠り、
怠ける権利がある。

ここはよく分からない。朝までしか眠らないのなら、怠けたことにならないのでは? という不条理さの感触。

ぼくは
サソリ座の兎にして
山猫スト主義者だ。

長田弘、兎年生まれのさそり座。山猫ストというのは、組合の認可を得ていないストのことで、一匹狼の印象を与える言葉。19世紀アメリカの「山猫銀行」が語源らしいが、山猫は一匹で行動し、遠吠えをするらしい。まあ、意味はない。

革命はない。
ない革命がある。
あゝ、
始末がわるいよ。
おれたちの言語には
否定主語がねえんだよ。
まったく
雨の降る日は
天気がわるい。

『言葉殺人事件』はマザー・グース色の強い詩集だが、この詩篇の中でマザー・グース色が強いのはこの部分。《革命はない。/ない革命がある。》を英語で言うと、There are not revolutions. There are no revolutions.で、どっちもほぼ同じ意味になる。が、日本語で「ない革命がある」というと変な日本語になる。ゆえに《あゝ、/始末がわるいよ。/おれたちの言語には/否定主語がねえんだよ。》ということになる。いくつか前の記事で書いたように、and then there were…というフレーズを、ゼロになるまで続けられる英語と違って、日本語ではゼロのときは「そしてだれもいなくなる」としなければならない。そういえば「そして誰もいなくなるバラッド」も、《とに革命、かに革命!》ではじまる、革命をめぐる詩篇だった。その意味で、「バラッド第一番」は、『言葉殺人事件』の「とてもぶっちゃけたあとがき」と言えるかもしれない。さらに、《雨の降る日は/天気がわるい。》というマザー・グーストートロジー! 徹底していて素晴らしい。

夢は、
三界の首っかせだ。
蛇の道はへび、
服従することは
学ばなかった。
二百本ほどの骨でできてる
一ツ身。
それだけしか
いつも持ち合わせがなかった
いまも。

数詞、三・二・一が連続する点については先に触れた。《三界》とは仏教用語で「欲界・色界・無色界」のこと。あるいは「三千大千世界」のこと。1977年の晶文社版では、ここは《三がいの》と、漢字はかなに開かれていた。変更した意図は分からない。成人の人体の骨は過不足なければ208本らしいが、なんと個人差があるらしい。《一ツ身》とはふつうは乳児用の着物のことだが、ここでは一つの身体、という意味にもなっている。この手の、韻と字面を利用したダブルミーニングも長田が多用している手法で、たとえば「言葉のバラッド」だと《字書きの恥かき/やちほこの紙反古//おゝ、なんと/一切は一切れだ//日暮れの野暮は/もはやヘボ》みたいな、滑らかな「意味の滑り込み」というべきライムのノリがグルーヴを生んでいる。ところで、《やちほこの神》とは大国主命で、「神」が「紙」に掛かって、「反故紙」に掛かるのだけど、「神」の発音は「/カ|ミ」(頭高型のアクセント)で「紙」は「カ/ミ\」(平板式アクセント)であり、朗読という観点からすると、別の言葉なんだけどなあ、と思っていたら、「ブラタモリ」で、広島にある「白神社(しらかみしゃ)」の語源を説明していて、もともとは、船が座礁しないように白い紙を目印に立てていたらしい(広島は三角州で、遠浅の海がひろがる)。ということは、「紙」と「神」の混同というか、縁語関係は、わりと古くからあったのですね。

という感じで、「バラッド第一番」をめぐっていろいろ書いてきた。この作品の良さは、指より言葉が速い、というテンポ感にあって、いろいろ意味(シニフィエ)を探る営みは、無駄かもしれないし、無粋かもしれない。けれど、このテンポを生み出しているのも、「我なきところで我思う、ゆえに、我思わぬところに我あり」のような、一瞬、「え、何言ってるの?」と戸惑わせるような変な言葉遣いなのである。だから、何度口にしても心地よいし、僕なんかは暗誦してしまった。そういえば、ぼくにとって、生まれて初めての、全体を暗誦できる詩篇がこれなのだった。

(気が向いたらつづける)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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