LOTUS研究会「斎藤秀雄俳句作品合評会」のお知らせ
LOTUS研究会にて、拙作を読んでいただけることとなりました。
おそらく、先日、第8回攝津幸彦記念賞で准賞となった「藍をくる」30句(『豈』66号)を中心に、読むのではないかと思います。
気軽にご参加いただけると、嬉しいです。
資料配布と、Zoomのご案内のため、九堂夜想さんか、私(斎藤秀雄)にメールアドレスをお知らせください。
■LOTUS研究会2024(1月)
※Zoomによるオンライン会合
『LOTUS』49号(2022年2月)が届きました。特集は「多行形式の論理と実践〔評論篇2〕」。これは
に続くもので、多行三部作をなすものです。
私は未補さんとの対談形式で「一行という多行」なる記事を寄せています(未補さんは47号に作品を寄せています)。
ところで、この「一行という多行」という対談の冒頭は、こうなっています。
未補 高柳重信は、《多行表記は、俳句形式の本質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである》(「批評と助言」『俳句評論』昭和四四年七月)と述べています。私には、重信が言おうとしていることの意味が正直よく分からなかったのですが……。斎藤さんは《俳句形式の本質が多行発想にある》という意味をどう考えますか?
斎藤 煙に巻くような微妙な言い回しですよね。「俳句形式の本質は多行形式にある」だと形式の語が二重になるから避けたのかもしれない。にしても「多行発想」って何(笑)。
ここで未補さんが引いている文章を、もう少し長めに引いておきます。
端的にいうならば、多行表記は、俳句形式の本質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである。したがって、俳句表現を、一本の垂直の棒の如きもの、として認識しようとする人たちには、もちろん、多行表記が存在し得るはずはないのである。まして、俳句形式について、如何なる洞察をも持たないか、あるいは、それを持とうとしない人たちには、はじめから、一行も多行も、それこそ、何もかもが存在しないのである。(高柳[1969→2009:276]、強調は引用者)
我々の対談は、重信を引用しつつ、それにしても「多行発想」という言葉が何を意味しているのか、これ(引用部分)だけ読んでも分からないよね、という認識からスタートしているわけです(じっさい、これだけ見ても、分からない)。ただ、こう言いつつも、おそらくあそこで重信が言っていることが、念頭にあるのだろうなあ、という見当は、なきにしもあらず。というかたぶん、十中八九、ここです。長めになりますが、引用しておきます。
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発行5回ごとに、特別号を発行しています。必ず特別号を出すわけではありません。これまで、ゲスト選者をお呼びする三首×三名の合評、俳句と川柳も募集する「きりんねこ短歌俳句川柳合評会」、などの企画で特別号を出しました。
ルビをふる場合、空行を入れたあと、「漢字:かんじ、漢字:かんじ」という形式で記述してください。
発行後3ヵ月経過したものを、PDFで公開しています。
(リンクにミスがあったらコメントで教えて下さい!)
※「うたの日」に書いた選評をサルベージしてみます。ブラウザにベタ書きしていたので。初出になかった改行を加えたり、誤字を訂正したりはしています。
※「うたの日」に書いた選評をサルベージしてみます。ブラウザにベタ書きしていたので。初出になかった改行を加えたり、誤字を訂正したりはしています。