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note連動《マイ本棚でまとめるマイ人生》文献表

noteの「#マイ本棚」タグの企画に便乗して、自分の人生を本棚の6区画でまとめる、という試みをしてみた

「マイ本棚でまとめるマイ人生」では、人生を

  1. 草創期
  2. 早期
  3. 前期
  4. 中期
  5. 後期
  6. 晩期

の6段階に分けた。

書斎の本棚の6区画をこの企画のために空け、詰められるだけ詰めた。

各区画についてのコメントはnoteに載せた記事を御覧ください。

ここでは写真に写っているすべての文献をリスト化することを目的とします。

2017.07.24追記:Amazonに存在する本を可能な限りリンクした。文庫化されているものや、より良い新訳があるものは可能な限り置き換えるか、括弧書きで添えた。(現在作業途中)

(1)草創期:中高生時代〜大学に入学してしばらく

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※上にのっかっている本

(2)早期:ポストサリン事件、卒論提出まで

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※上にのっかっている本

(3)前期:修士論文提出まで

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角川『俳句』2017年6月号・カレンダーとか

sammā-samādhi by Hideo Saito on 500px.com

もう来月号が出てしまうので、角川『俳句』2017年6月号について、書いておく。

まず。拙句、対馬康子選・佳作で一句採られた。







紙面では、宇多喜代子の対談のゲストが中牧弘允で、話題はカレンダー(暦)なのだけど、中牧弘允といえば博識の文化人類学者で、日本の企業と宗教の関係を描いた本をいろいろ出していて、興味深い人。

最近だとはてな界隈ではダスキン宗教が話題になっていたけど、「王殺し」の儀式としての社葬とか、日本の企業って経営者の帰依する宗教によって成り立っている面が、少なくない。という部分を中牧さんは執拗に描いている。

宗教色を薄めて地方の中小企業にもゆきわたるようにシステム化したのが倫理研究所の主催する倫理法人会で、朝礼で『職場の教養』っていう小冊子を朗読させられている職場も多いのではないか。

倫理研究所の理事長・丸山敏秋は親学推進協会の評議員もやっている。つい先日、百田尚樹が代表呼びかけ人の「放送法遵守を求める視聴者の会」が「安保法制や特定秘密保護法に関するテレビの報道は反対ばかりに偏っており、放送法違反だ」というような記者会見をしたのが話題になったけれど(あとこの会の代表呼びかけ人がすぎやまこういちから百田尚樹に交代したと発表した)、この「視聴者の会」の賛同者にも名を連ねている。

日本会議の5周年へのお祝いの言葉「各界より」では

日本会議並びに日本会議国会議員懇談会設立五周年を心よりお慶び申し上げます。今日の世相を見るとき、ますます本会議の役割の重要さを痛感せずにはおられません。とりわけ、社会を構成している最小単位である家庭の崩壊は目を覆うばかりで、いっときの猶予もありません。この復旧への運動に今こそ開闢以来築いてきたすばらしい伝統文化に思いを馳せ、先人たちの尊き働きに感謝の念を抱き、よってたつところの精神的支柱を再び確立すべき危急存亡の時と申せましょう。

(各界より « 日本会議)

みたいなことを言っておりんす。

すごく余談だった。

『俳句』6月号の宇多対談では、世界中のカレンダーについて縦横無尽に語っていて、面白い。

「日本の四季の分け方には四つある」というような話があって、グレゴリオ暦太陽暦)と太陰太陽暦(いわゆる旧暦)と、二十四節気と、あとなんだろう。と思っていたら、そういうことではなくて、

というものらしい。後者2つは知らなかった。

あとまあ、世界中で「正月」を祝う風習はあるのだけど、グレゴリオ暦の1月1日をお祝いするのは世界中で日本だけだっていうのも面白かった。

そういえば新暦が導入されたのって、明治5年の年末、この年はいわゆる「閏月」があってほんらい13ヶ月ある年だったのだけど(12月のあとに閏12月が来る予定だった)、これを飛ばして新暦導入したのは公務員の月給を1ヶ月分安くするためだった、って池上彰が言ってた。昔。

宇多喜代子は《私のひいじいさんは改暦になったとき、「正月に月が出ているのはおかしい」と大騒ぎをしたそうです(笑)》と言っていて、そうよなあ、と思った。「ついたち」って「朔日」で新月ですものね。

「平成俳壇」から気になった句を列挙したいなあ、と思っていたら、ひとつき過ぎてしまった。網羅的でないけれど、ざっくり眺めたときにひっかかった句を挙げます。網羅的でないので、ここに挙げなかった句をよくないと思ったということではないです。

  • クレーン車吊るすクレーン霾曇り 近江満里子
  • 自販機の硬貨の響き春寒し 兵藤康行
  • 啓蟄や道を横切るゴムホース 千田一到
  • 記憶には残らぬ今日のたんぽぽ黄 神野志季三江
  • 白色のクレヨン増えてゆく春思 土井探花
  • 春風や波打つ水たまりの青 齊藤綺子
  • 啓蟄や女人来りて奇蹟説く 源和子
  • 朝東風や赤門前の製本屋 種田千代
  • 軒下の釘に吊るして雪合羽 川井鎮雄
  • 薪に薪立てて薪割る寒日和 岡井敬治
  • 裏通りにパンの樹の実や明易し 西村節子
  • ごみ出しに出て風花の中に入る 原美津子
  • 春浅し両手に余る飴もらふ 塩川怜子
  • 一年のおほかた闇にゐて雛 桜井教人
  • 冬薔薇抱へて入る銃砲店 鯉素奈
  • 鉄塔の脚は四本春一番 上野行治
  • 刃を入れてより白菜の芯衰ふ 筒井慶夏
  • きゆつと反る二月のメレンゲへ朝日 このはる沙耶
  • ゆるやかにまがりをるゆきのみち 相澤ひさを
  • 風上は醤油工場春兆す 白石久美子

ネットプリント毎月歌壇に短歌が掲載されました(2017年6月号)

Viññāna by Hideo Saito on 500px.com

ネットプリント毎月歌壇』2017年6月号に短歌が掲載されました。

今年度の選者、竹中優子さんの選です。

  • 呼気吸気合はせて呼吸と謂ふけれどそこがおまへの限界なのさ。 斎藤秀雄

竹中さんの選評に《合はせて、とあるがどちらかというと「呼吸」が「呼気」と「吸気」に分解されていると感じた》とあって、膝を打った。

僕は職業柄、マインドフルネスのガイドをすることがあって、マインドフルネスの基本は呼吸のマインドフルネスなので、「息を吸う時は必ず鼻から吸ってください」などとよく言ったし(最近はこれは言わない。「自分にとって自然に感じる呼吸をしてください」と言うようにしている)、「呼吸に意識を集中してください」「呼吸に注意を4分の1ぐらい向けてください」などとセリフを吐き、「呼気は鼻の粘膜をどのように擦っていますか」などと問いかける。

ようするに「流れ」としての動き(体験流)を、「できごと」に分節化していくことが「気づき」(awareness)であって、みたいな考えにもとづいているのがマインドフルネスの本流。

ガイドする側は、いかにしてガイドされる側の分節化の働きを促していくかという点に執着しており、あらかじめ「呼気」「吸気」というカテゴリーを準備してしまっている。そうすると、仏教的「魔境」、というと大げさすぎるけれど、「呼気があり、吸気がある、合わせて呼吸である」という認知になってしまう。そうじゃないよね。ふだんは呼吸をしていて、よくよく注意してみると、呼気と吸気があるよね、と気づく、という順番なのだ。という気づきを竹中さんの選評は教えてくれる。

などと竹中さんのガイドに導かれて勝手に気づいてしまったが、はたしてどうなのだろう。

  • 呼吸があり、それが呼気と吸気に分析されるのか。
  • 呼気と吸気があり、それが呼吸に総合されるのか。

だがこのようなアポリアに悩まされているとき、下の句がやってくる。「そこがおまへの限界」だと。

というふうにお前が言ったんじゃないか、と思うかもしれないけれど、竹中さんの選評は《限界だ、という声を発したのが誰なのか、それも誰にも分からないのだ》と締められる。確かに。僕にも分からない。誰がこのように書かせたのか。分からない。(超自我じゃないですかね)

ネプリ歌壇、今月号は6月25日までプリントアウトできます。20円です。

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「民報俳句」に俳句掲載。佐藤祐禎と東海正史(2017.06.18)

Sammā-Kammanta by Hideo Saito on 500px.com

「民報俳句」(福島県のローカル紙『福島民報』の「読者文芸」欄)に俳句が掲載されました。選者は永瀬十悟さん(第57回角川俳句賞受賞)。

  • 我の手のをんなのごとし茄子の花 斎藤秀雄

1年ぐらい前に「ローカル紙にも投稿してみようかな」と思って投稿したところ、「評付き」で掲載されて(毎回、選者の「評」が付く句が2句、付かない句が10数句掲載される。入選と佳作、というふうに思ってよいかと思う)、そのときも選者は永瀬さんだった。

  • 雲雀ゆけおれもぼちぼちゆくだらう 斎藤秀雄

その後、評なしで一句掲載されたきり、選者が変わってからはまるで載らなくなって、つまんなくなって送るのをやめてしまった。最近、また送ってみようかなと心変わりして、送るようになった。

そんなわけで、1年ぶりです、久しぶりですね、という感慨。

福島民報』の「読者文芸」には県内の歌人俳人のコラムが毎回掲載されていて、どなたのコラムだったか忘れてしまったけれど、あの佐藤祐禎『青白き光』を知ったのも、同コラムで紹介されていたことがきっかけだったと思う。

今日の「読者文芸」の歌人コラム「わが心のうた」は鎌田清衛さんが担当していて、佐藤祐禎と東海正史を紹介していた。東海正史という歌人は、知らなかった。

鎌田氏によれば、ふたりとも朝日歌壇の常連だったらしく、ともに「原発歌人」として有名だった。佐藤祐禎は大熊町で農業を営み、東海正史は浪江町の事業家だった。佐藤氏は平成25(2013)年、避難先のいわき市で亡くなった。東海氏は平成16年、歌集『原発稼働の陰に』を上梓してまもなく亡くなった。

佐藤祐禎『青白き光』は初版が平成16年(東海『原発稼働の陰に』と同年)、再版が平成23(2011)年で、ぼくの手元にあるものも再版のものだ。Amazonでは在庫切れのようだが中古品が出品されているのでそれを買うか、いりの舎に直接発注することで入手できる。

東海正史『原発稼働の陰に』はAmazonでも見当たらないし、出版社さえ分からない。ご存じの方がいらっしゃれば、教えていただきたく。

佐藤祐禎の『青白き光』は、平成14(2002)年の

  • 三十六本の配管の罅も運転には支障あらずと臆面もなし
  • 原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ
  • いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる

のような一連の反原発の、あるいは東電の組織的な体質への批判としての、あるいは国の原発政策への抵抗としての歌で有名になった。歌集のタイトルにもなった「いつ爆ぜむ」の歌は、極めて甘美的で、アドルノのかのテーゼ《アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である》を実直に実践している。正確に言えば、敵の武器を用いて敵を写し取っている。これを詩の分野で実践的に行い得たのは、ぼくの知る限りではパウル・ツェランぐらいのものだ。

社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。

(『プリズメン』ちくま学芸文庫、36頁)

『青白き光』より、いくつか:

  • 雪冠る街中に立つ煙突に直ぐ立つ煙太く動かず (昭和58(1983)年)
  • 朝かげの漸く及びし牧原にまだらに霜は解けはじめたり (昭和62(1987)年)
  • 籾摺りを終へたる納屋に折々の風吹き入りて埃うごけり (昭和62(1987)年)
  • 「この海の魚ではない」との表示あり原発の町のスーパー店に (平成元(1989)年)
  • 草刈機に両断されし赤まむし頭と胴としばらく動く (平成九(1997)年)

鎌田清衛氏のコラムに戻ると、東海正史の次の二首が紹介されている

  • 原発の稼働の陰に被曝量超えて去るなり今日また三人(みたり)
  • 残されし子も骨髄を病むといふ核に斃れし君の遺伝子

こうして「福島第一原発事故」以前の、反原発歌を読み解こうとすると、どうしても、佐藤祐禎の大熊町での農民(柳田国男のいう「常民」)としての日常に浸透している不穏な緊張感が、重要なものになってくると思えてならない。それはもちろん、『青白き光』という歌集を通読することによって得られる体験であって、だからこそ、東海正史の『原発稼働の陰に』の再版が必要になる、ということになろう。

「原子力利用に関する基本的考え方」へのパブコメ、の下書き

Dukkha Sacca by Hideo Saito on 500px.com

内閣府

内閣府原子力委員会は、中立的・俯瞰的な立場を活かし、今後の原子力利用の長期的な方向性を示唆する「原子力利用に関する基本的考え方」を策定するため、その検討を進めております。取りまとめの参考とするため、国民の皆様から広く御意見を募集します。

(「原子力利用に関する基本的考え方」策定に向けた御意見の募集について-原子力委員会)

というパブコメ募集をしていた。締切はこの文章を書いている翌日。

テキストエディタにばーっと書いていたら、3000字オーバーになった。パブコメフォームは500字以内なので、削りに削って、いちおう、出した。

以下、パブコメ用500字の短縮版と、元の3000字オーバーのバージョンを、残しておこうと思う。

パブコメ

福島県在住のカウンセラー、社会学者。

原子力開発・発電について、もっぱら「安全か危険か」という二項対立で語られがちだ。が、社会学ではこれを「縮減」として破棄。必要なのは〈危険かリスクか〉という問い。〈リスク/危険〉は、〈システム/環境〉=〈内部/外部〉=〈行為/体験〉の差異に対応する。「雨が降ってきた(体験=外部帰属)。私は傘をさした(行為=内部帰属)」。システムはその選択行為をリスクテイクとして帰責される。

本邦は4枚のプレートの交差上に位置する。地震予知はまだ困難だが、M7は年に1~2回、M8は10年に1回必ずあることは既知。リスクを度外視・過小評価して選択された行為は、自己責任として内部帰属される。「事故は起こらない」と想定することは「リスクテイク」ではなく外部帰属だ。

原子力施設等における事故の責任は、【完全に・無限に・漏れなく・機動的に】決定者が負わなければならない。これは1955年の原子力基本法の立法及び政府によるその後の推進によって明白。【無限のコスト】を支払う準備があるのなら、推進していけばよい。ただし、福一事故が生んだ無限のコストを支払ってからそうするのが筋だ。

オリジナルバージョン

福島県在住のカウンセラーです。

社会学者でもあります。

双方の立場から順次述べます。


まず社会学者として。

原子力、というか原子力発電(所)について、もっぱら「安全か危険か」という二項対立で語られます。が、社会学ではこれを「縮減」(reduction)として切り捨てます。必要なのは〈危険かリスクか〉という問いです。これが本邦において理解されにくいのは、Riskに対応する日本語が存在しないからです。ウルリヒ・ベックのRisikogesellschaft(リスク社会)は『危険社会』というタイトルに翻訳されてしまいました。

〈リスク/危険〉は〈システム/環境〉の差異に対応します。〈リスク〉は〈システム〉(つまり内部)に帰属され、〈危険〉は〈環境〉(つまり外部)に帰属されます。

ある事象がリスクであるのか危険であるのか(内部帰属か外部帰属か)は、一意的に定まりません。雨がふることはもっぱら環境に帰属される事柄ですが、相当程度天気予報が精密になった現在、雨に備えて傘を持って出かけるか否かは、内部帰属される傾向に変化しました。

〈内部帰属/外部帰属〉の差異は、〈行為/体験〉の差異とも言えます。「雨が降ってきた(体験=外部帰属)。私は傘をさした(行為=内部帰属)」というわけです。

リスクが内部帰属=行為=システムに帰属されることである、ということは、システムはその選択を「リスクテイク」として帰責されるということを意味します。

現代社会において、予見不可能なことはますます減ってきています。「不確定要因」という言葉がしばしば使われます(たとえば米国大統領の決定などについて)が、「不確定な要因がある」という事実自体は把握されています。本邦国土が4枚のプレートが沈み込む交差点に位置することは義務教育の段階で教育されますし、地震予知が難しいとは言っても、M6クラスは月に1回程度、M7は年に1~2回、M8は10年に1回必ずある、ということは把握されています。死亡者が1000人を超す地震は過去120年に12回、平均して10年に1回起きており、犠牲者が100人を超す地震は5年に1回起きています(地震以外にも、ミサイル等の武力・テロの行使、小惑星の衝突など、確定的な予測はできなくともそれらが「起こりうる」こと自体は理解されているはずです)。

このことは、地震があるリスクを度外視して選択された行為は、自己責任として内部帰属される、ということを意味します。

1955年に原子力基本法を立法したこと、及びその後の原子力利用の推進は、原子力発電所及び原子力開発・研究施設等における事故の責任を、【完全に・無限に・漏れなく】決定者=政府・原子力委員会原子力安全委員会・その他法人(日本原子力発電株式会社等)が負う、ことを意味します。

このことは2011年の福島第一原子力発電所事故においても当然にあてはまります。

かかる「無限責任」を覚悟の上で原子力利用を推進したのだから、まずはその責任を果してみせるのが筋である、ということが言えます。

事故から6年経過したというのに、なぜ福島県立浪江高等学校津島校の空間線量は4μSv/hを超えているのでしょうか(2017年6月4日閲覧)。なぜ、放射線被曝への恐れを感じている国民が、存在しているのでしょうか。【無限に責任を負う】ということは、仮に事故が起こっても、このような事態を【機動的に】(フルスピード且つフルパワーで)収束させることを保証するのでなければなりません。

「事故は起こらない」と想定することは、「リスクテイク」ではありません。外部帰属です。

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『NHK短歌』に短歌が掲載されました(2017年6月号)

sammā-vāyāma by Hideo Saito on 500px.com

ちなみに『NHK俳句』は全滅でした。

調子が悪いわけではありません。この記事を書いている今現在は調子が悪いかもしれませんけれども。なんでかわかんないけど、ひとつもとられませんでした。新しい選者になって初回で無得点というのは、幸先が悪いのか、あるいはこのまま一生ダメなのかもしれません。

短歌では2首、とっていただきました。

黒瀬珂瀾

  • 階段を降りるときだけポケットの手を出す君の右手に触れる 斎藤秀雄

佐伯裕子選

  • 君はきょうノースリーブで横にいて眩しい月のごとき両肩 斎藤秀雄

なぜか、(1)口語・新仮名で書いた、(2)恋愛っぽい内容、という共通点がありました。

「恋愛っぽい内容」については、たんに「君」という登場人物がいるだけなので、恋愛の歌と解釈する必要もないわけですけれど、そう読まない必要もないかと思います。男女の恋愛には限らないですが。

いきなり恋愛をテーマにしたりして頭がおかしくなったんじゃないか、いやもともとか、と心配されるかもしれませんが、まだ短歌にかんしてはフォーマットの広さ(プロクルステス寝台)感覚を探っている状態なので、テンプレートに沿った無内容なものが採用された、ということかと思います。

そういうもの(無内容を志向したもの)ばかり書いているわけではないですが、今回はそういうものがとられたということであります。

俳句に関しては、形式に書かされているのだ、私が書いているのではなく有季定型というフォーマットが書いているのだ、という感覚があるのですけれど、短歌ではまだ自分を消せていない感覚があります(いや、俳句もまだまだですが)。

ただ、それを言うと、こういう記事、散文の文章だって、言語というか文法というか、〈大文字の他者〉の背後からの声によって書かされているわけですから、そこに私がある(いる)とはそもそも思わないのですが、形式をうまく活用・利用する手触りのようなものは、少なくとも短歌を書くときにはまだ、そう多くは訪れないなあ、というふうに思っています。

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追記アリ【朗読】江戸川乱歩「白昼夢」を朗読します@FMモットコム

Samadhi by Hideo Saito on 500px.com

【2017.04.30末尾に追記】

宣伝です。

福島県本宮市のローカルFMラジオ局、エフエムモットコムに朗読で出演します。

本当に、まじで、真剣に、聴いてください。お願いします。お願いしましたからね!

今度の金曜の早朝と、来週の月曜の夕方の再放送。

  • 2017年4月28日(金)8時15分~
  • 2017年5月1日(月)18時45分~

そして放送を聴いたら(あるいは聴き逃したら)FMモットコムに感想メールをお送りください。「江戸川乱歩を読んだ人の朗読をもっと聴きたいです!」とお願いします。放送が終わってからね。

聴く方法その1。ListenRadioリスラジ)。

「全国のラジオ局」>「東北」>「FM-MotCom」

スマホアプリもあります。

聴く方法その2。CSRA

「STATION LIST」>「東北」>「エフエム モットコム」の[放送を聴く]ボタン。Windows Media PlayerVLC Media Playerのようなmmsストリーミング放送に対応しているソフトウェアで聴くことができます。

ストリーミング用asxファイルへの直リン>http://csra.fm/asx/fmmotcom.asx

録音する方法。

VLC Media Playerがインストールされていれば、以前アップしたPowerShellスクリプトで録音できます(Windows限定)。Windows以外ならシェルスクリプトを書くとかして、なんとかできます。

GitHubからZIPでダウンロードして、motrec.batをダブルクリックすると、次回放送分の予約ができます。

読む作品、江戸川乱歩「白昼夢」について

光文社文庫版江戸川乱歩全集が底本です。

ちくま日本文学007のバージョンと少し違う点があります(確認したら、ほんの少しだけだった)。

ぼくはことあるごとに、ちくま日本文学『江戸川乱歩』を推薦してきたので、すこし心苦しくもあります。

そこで、20円で入手していただくべく、私家版を発行しました。

折本の作り方・読み方はnoteに書きました

まあ、青空文庫版は光文社文庫版全集を底本にしているので、Kindleで入手してもいいのですが。

予習しておいていただきたいこと

「白昼夢」はとても短いので、いちおう、読んでおいてください。

それ以外には、「押絵と旅する男」を読んでおいてください。

「白昼夢」を読むのに必要な前提となる知識は:

江戸川乱歩における夢の表現について

という記事を書こうと思っているが、いつになるかは分からない。

2017.04.30追記

本放送(4月28日)を聴いた方は気付いたかと思うけれど、音声がおかしなことになっている。朗読が始まると同時に、いきなりAMラジオのようなデグレードした音声になった。

まず、作品冒頭、「白昼夢(タイトル)あれは白昼の悪夢であったか、それとも現実の出来事であったか。晩春の生暖い風が、オドロオドロと、火照った頬に感ぜられる、蒸し暑い日の午後であった。」という20秒弱の、マスター音源の周波数特性をグラフ化したものを見ていただきたい。

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220Hzをピークに、86Hzに向かって減衰している。普段のぼくの朗読と比較すると、若干高めの特性を示しているが、高い音程から開始しているので、冒頭部分がこうなっていることは理解できる。

次に、放送された音声の、同じ部分の周波数特性を見ていただきたい。

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500Hzをピークに、86Hzに向かって減衰している。

音程で言うなら、1オクターブ以上うえにピークが来ている。つまり、500Hz付近にピークを持つハイパスフィルター(イコライザー)で基音が抹消されている

いろんな嫌がらせを考えつくものだなあと感心してしまうが、基音をカットしたなら、上方倍音列(自然倍音列)=基音の周波数に整数2をかけた周波数以上の音しか聴こえない。これはぼくの声ではない、としか言いようがない。

「ラジオだから」という言い訳は通用しない。なぜなら、朗読が始まる直前の、番組イントロ部分の音声は、320Hzと550Hzのふたつのピークをもつ周波数特性だからだ。

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ラジオだから低音部分はカットしたというなら、番組イントロ部分もそうなっていなければならないだろう。

念のために、4月14日放送の、太宰治「待つ」の冒頭部分の周波数特性も見よう。

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250Hzと550Hzにピークをもつ周波数特性になっている。

ということは、少なくとも250Hzまでの低音ならカットせずに残せる、ということを意味している。

読者諸氏には、福島県という「悪い場所」で、どのようなことが生じているのか、想像していただきたく思う。エフエムモットコムまで、メールお待ちしております。