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ネットプリント毎月歌壇に短歌が掲載されました(2017年6月号)

Viññāna by Hideo Saito on 500px.com

ネットプリント毎月歌壇』2017年6月号に短歌が掲載されました。

今年度の選者、竹中優子さんの選です。

  • 呼気吸気合はせて呼吸と謂ふけれどそこがおまへの限界なのさ。 斎藤秀雄

竹中さんの選評に《合はせて、とあるがどちらかというと「呼吸」が「呼気」と「吸気」に分解されていると感じた》とあって、膝を打った。

僕は職業柄、マインドフルネスのガイドをすることがあって、マインドフルネスの基本は呼吸のマインドフルネスなので、「息を吸う時は必ず鼻から吸ってください」などとよく言ったし(最近はこれは言わない。「自分にとって自然に感じる呼吸をしてください」と言うようにしている)、「呼吸に意識を集中してください」「呼吸に注意を4分の1ぐらい向けてください」などとセリフを吐き、「呼気は鼻の粘膜をどのように擦っていますか」などと問いかける。

ようするに「流れ」としての動き(体験流)を、「できごと」に分節化していくことが「気づき」(awareness)であって、みたいな考えにもとづいているのがマインドフルネスの本流。

ガイドする側は、いかにしてガイドされる側の分節化の働きを促していくかという点に執着しており、あらかじめ「呼気」「吸気」というカテゴリーを準備してしまっている。そうすると、仏教的「魔境」、というと大げさすぎるけれど、「呼気があり、吸気がある、合わせて呼吸である」という認知になってしまう。そうじゃないよね。ふだんは呼吸をしていて、よくよく注意してみると、呼気と吸気があるよね、と気づく、という順番なのだ。という気づきを竹中さんの選評は教えてくれる。

などと竹中さんのガイドに導かれて勝手に気づいてしまったが、はたしてどうなのだろう。

  • 呼吸があり、それが呼気と吸気に分析されるのか。
  • 呼気と吸気があり、それが呼吸に総合されるのか。

だがこのようなアポリアに悩まされているとき、下の句がやってくる。「そこがおまへの限界」だと。

というふうにお前が言ったんじゃないか、と思うかもしれないけれど、竹中さんの選評は《限界だ、という声を発したのが誰なのか、それも誰にも分からないのだ》と締められる。確かに。僕にも分からない。誰がこのように書かせたのか。分からない。(超自我じゃないですかね)

ネプリ歌壇、今月号は6月25日までプリントアウトできます。20円です。

ところで下の句、「そこがおまへの限界なのさ。」は七・七で、定型に合っている。

というか定型に合うように言葉を「選ばされている」のが定型詩を書く主体に到来している体験なのだけど、定型が立ちはだかること、すなわち、相対的な他者というよりもむしろ絶対的で超越的な他者との出逢い、というモチーフが、定型詩をめぐる議論にはしばしば現れる。さいきんもTwitterで誰かが言っているのを見た。

何がいいたいかというと、この下の句は、スッと出てきた。もちろん「選ばされている」ので、自分(いわゆる主体)から出てきたわけではないのだろうけれど、とにかく上の句を口にしたときに、さあラスト14音、どうしようかな、と思ったときに、「上の句に漢字が多くて堅苦しい気がするので下の句は脱力した感じにしたい」という心の傾向が生まれ、その傾向に沿うように、定型という超越的なものが作者(わたし)というパンの留め具のようなものを通してこのように語ったわけである。

以下、とくに「言いたいこと」のない文を、つらつらと書いておく。

いま「14音」と言ったけれど、正確に言うと「14モーラ」である。

俳句の入門書の書き出しの定番は「よく17文字の詩などといいますが、正確には17音です」というものだが、これも正しくない。俳句は17音ではなく17モーラである。短歌は31音ではなく31モーラである。

今のは余談である。

ぼくは俳句をはじめてからしばらくして短歌もやるようになったのだけど、俳句をはじめたきっかけは、穂村弘『短歌という爆弾』を読んで、さあ短歌を書いてみようか、というときに、うわー! さらに下の句も書かなきゃならないの! 長いよ! と「下の句書けない挫折」を味わったことである。

ぼくには31音はあまりにも広大すぎて手に負えなかったのである。それで俳句をはじめた。昔、正岡子規俳諧大要』を読んで感心したものだから、俳句ならなんとかなるだろう、と思ったのである。

それからしばらくして、千野帽子『俳句いきなり入門』という入門書を読んでいたら、「明確な切れのない句の下五を体言止めにすると、うしろに七七が続きそうな印象を与えてしまってよくない」(大意)というようなことが書いてあって、そんなものかなあ、と思い、避けてきた。「切れのない下五体言止め」とは、たとえば

  • 風垣の隙間だらけを海の紺 草間時彦

のような句は、切れ字がなく、句末が名詞で終わっている。対し、

  • 稲づまやかほのところが薄の穂 芭蕉

だと、「や」という切れ字があるので、句末が「穂」という名詞で終わっていても、短歌の上の句だけ切り出した感じがしない、というわけである。

【追記】千野本で句中で切れないで句末が体言止めに成っている例として挙げられているのは《玄室へ靴の運びし春の泥 八染藍子》。上述の《風垣の隙間だらけを海の紺 草間時彦》は、「助詞止め(述語なし)」をさらにシンプルにした「連用修飾語+体言止め(連用修飾語を受ける述語なし)」で、千野氏のいう「句中で切れない句末体言止め」とは異なる、そうだ。千野本164~169頁および本記事のコメント欄参照。

まあ、そんなものかなあ、と思ったので、できるだけ句末を体言止めにしないように(するなら切れ字を入れる)とやってきたのだけれど、ここ数ヶ月、句末を体言止めにする手法にハマってしまった。たとえば

  • 断片を継ぎてこほろぎの丸貌 クズウジュンイチ
  • 風止んで巨大に枯れてゐるカンナ 神野志季三江
  • 一ところくらきをくぐる踊の輪 橋本多佳子
  • サフランの花を心にとどむる黄 後藤比奈夫

クズウジュンイチ氏と神野志季三江氏の句は角川『俳句』より(お二方とも角川『俳句』や『NHK俳句』の常連である)。

新興俳句系だと

  • 草二本だけ生えてゐる 時間 富澤赤黄男
  • 人の世へしづかにうごくもの 沙漠 坂戸淳夫

などがあり、これは当然後ろに七七が続くような感じがしない(スペース空けが切れ字に近い機能も果たしているのかもしれない)。

詩歌SNSとしてはじまったpoecriのWEB同人誌『poecrival 1』に、ぼくも10句投句したのだけど、入選はならず、「堀下翔選・拾遺」に4句載っただけだった。載ったのは次の4句

いずれも体言の季語に向かって重量をかけていくスタイルで、うまくいくとスコーン!と円錐が逆立ちして立っているようにバランスがとれるのだけど、うまくいかないと官僚的な「ボキボキ文」にしか見えなくなる。

まあ、一時的なマイブームで、いずれ飽きるのかもしれない。

何がいいたいかというと、言いたいことのない文を書いてきたのだけれど、七七もなんとかスルリと快便のように出るようになってきた感じがするなあ。ということ。