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「民報俳句」に俳句掲載。佐藤祐禎と東海正史(2017.06.18)

Sammā-Kammanta by Hideo Saito on 500px.com

「民報俳句」(福島県のローカル紙『福島民報』の「読者文芸」欄)に俳句が掲載されました。選者は永瀬十悟さん(第57回角川俳句賞受賞)。

  • 我の手のをんなのごとし茄子の花 斎藤秀雄

1年ぐらい前に「ローカル紙にも投稿してみようかな」と思って投稿したところ、「評付き」で掲載されて(毎回、選者の「評」が付く句が2句、付かない句が10数句掲載される。入選と佳作、というふうに思ってよいかと思う)、そのときも選者は永瀬さんだった。

  • 雲雀ゆけおれもぼちぼちゆくだらう 斎藤秀雄

その後、評なしで一句掲載されたきり、選者が変わってからはまるで載らなくなって、つまんなくなって送るのをやめてしまった。最近、また送ってみようかなと心変わりして、送るようになった。

そんなわけで、1年ぶりです、久しぶりですね、という感慨。

福島民報』の「読者文芸」には県内の歌人俳人のコラムが毎回掲載されていて、どなたのコラムだったか忘れてしまったけれど、あの佐藤祐禎『青白き光』を知ったのも、同コラムで紹介されていたことがきっかけだったと思う。

今日の「読者文芸」の歌人コラム「わが心のうた」は鎌田清衛さんが担当していて、佐藤祐禎と東海正史を紹介していた。東海正史という歌人は、知らなかった。

鎌田氏によれば、ふたりとも朝日歌壇の常連だったらしく、ともに「原発歌人」として有名だった。佐藤祐禎は大熊町で農業を営み、東海正史は浪江町の事業家だった。佐藤氏は平成25(2013)年、避難先のいわき市で亡くなった。東海氏は平成16年、歌集『原発稼働の陰に』を上梓してまもなく亡くなった。

佐藤祐禎『青白き光』は初版が平成16年(東海『原発稼働の陰に』と同年)、再版が平成23(2011)年で、ぼくの手元にあるものも再版のものだ。Amazonでは在庫切れのようだが中古品が出品されているのでそれを買うか、いりの舎に直接発注することで入手できる。

東海正史『原発稼働の陰に』はAmazonでも見当たらないし、出版社さえ分からない。ご存じの方がいらっしゃれば、教えていただきたく。

佐藤祐禎の『青白き光』は、平成14(2002)年の

  • 三十六本の配管の罅も運転には支障あらずと臆面もなし
  • 原発推進の国に一歩も引くことなき知事よ県民はひたすら推さむ
  • いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる

のような一連の反原発の、あるいは東電の組織的な体質への批判としての、あるいは国の原発政策への抵抗としての歌で有名になった。歌集のタイトルにもなった「いつ爆ぜむ」の歌は、極めて甘美的で、アドルノのかのテーゼ《アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である》を実直に実践している。正確に言えば、敵の武器を用いて敵を写し取っている。これを詩の分野で実践的に行い得たのは、ぼくの知る限りではパウル・ツェランぐらいのものだ。

社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。

(『プリズメン』ちくま学芸文庫、36頁)

『青白き光』より、いくつか:

  • 雪冠る街中に立つ煙突に直ぐ立つ煙太く動かず (昭和58(1983)年)
  • 朝かげの漸く及びし牧原にまだらに霜は解けはじめたり (昭和62(1987)年)
  • 籾摺りを終へたる納屋に折々の風吹き入りて埃うごけり (昭和62(1987)年)
  • 「この海の魚ではない」との表示あり原発の町のスーパー店に (平成元(1989)年)
  • 草刈機に両断されし赤まむし頭と胴としばらく動く (平成九(1997)年)

鎌田清衛氏のコラムに戻ると、東海正史の次の二首が紹介されている

  • 原発の稼働の陰に被曝量超えて去るなり今日また三人(みたり)
  • 残されし子も骨髄を病むといふ核に斃れし君の遺伝子

こうして「福島第一原発事故」以前の、反原発歌を読み解こうとすると、どうしても、佐藤祐禎の大熊町での農民(柳田国男のいう「常民」)としての日常に浸透している不穏な緊張感が、重要なものになってくると思えてならない。それはもちろん、『青白き光』という歌集を通読することによって得られる体験であって、だからこそ、東海正史の『原発稼働の陰に』の再版が必要になる、ということになろう。