orangeProse別館

orangeProse(本ブログ)の補助

「原子力利用に関する基本的考え方」へのパブコメ、の下書き

Dukkha Sacca by Hideo Saito on 500px.com

内閣府

内閣府原子力委員会は、中立的・俯瞰的な立場を活かし、今後の原子力利用の長期的な方向性を示唆する「原子力利用に関する基本的考え方」を策定するため、その検討を進めております。取りまとめの参考とするため、国民の皆様から広く御意見を募集します。

(「原子力利用に関する基本的考え方」策定に向けた御意見の募集について-原子力委員会)

というパブコメ募集をしていた。締切はこの文章を書いている翌日。

テキストエディタにばーっと書いていたら、3000字オーバーになった。パブコメフォームは500字以内なので、削りに削って、いちおう、出した。

以下、パブコメ用500字の短縮版と、元の3000字オーバーのバージョンを、残しておこうと思う。

パブコメ

福島県在住のカウンセラー、社会学者。

原子力開発・発電について、もっぱら「安全か危険か」という二項対立で語られがちだ。が、社会学ではこれを「縮減」として破棄。必要なのは〈危険かリスクか〉という問い。〈リスク/危険〉は、〈システム/環境〉=〈内部/外部〉=〈行為/体験〉の差異に対応する。「雨が降ってきた(体験=外部帰属)。私は傘をさした(行為=内部帰属)」。システムはその選択行為をリスクテイクとして帰責される。

本邦は4枚のプレートの交差上に位置する。地震予知はまだ困難だが、M7は年に1~2回、M8は10年に1回必ずあることは既知。リスクを度外視・過小評価して選択された行為は、自己責任として内部帰属される。「事故は起こらない」と想定することは「リスクテイク」ではなく外部帰属だ。

原子力施設等における事故の責任は、【完全に・無限に・漏れなく・機動的に】決定者が負わなければならない。これは1955年の原子力基本法の立法及び政府によるその後の推進によって明白。【無限のコスト】を支払う準備があるのなら、推進していけばよい。ただし、福一事故が生んだ無限のコストを支払ってからそうするのが筋だ。

オリジナルバージョン

福島県在住のカウンセラーです。

社会学者でもあります。

双方の立場から順次述べます。


まず社会学者として。

原子力、というか原子力発電(所)について、もっぱら「安全か危険か」という二項対立で語られます。が、社会学ではこれを「縮減」(reduction)として切り捨てます。必要なのは〈危険かリスクか〉という問いです。これが本邦において理解されにくいのは、Riskに対応する日本語が存在しないからです。ウルリヒ・ベックのRisikogesellschaft(リスク社会)は『危険社会』というタイトルに翻訳されてしまいました。

〈リスク/危険〉は〈システム/環境〉の差異に対応します。〈リスク〉は〈システム〉(つまり内部)に帰属され、〈危険〉は〈環境〉(つまり外部)に帰属されます。

ある事象がリスクであるのか危険であるのか(内部帰属か外部帰属か)は、一意的に定まりません。雨がふることはもっぱら環境に帰属される事柄ですが、相当程度天気予報が精密になった現在、雨に備えて傘を持って出かけるか否かは、内部帰属される傾向に変化しました。

〈内部帰属/外部帰属〉の差異は、〈行為/体験〉の差異とも言えます。「雨が降ってきた(体験=外部帰属)。私は傘をさした(行為=内部帰属)」というわけです。

リスクが内部帰属=行為=システムに帰属されることである、ということは、システムはその選択を「リスクテイク」として帰責されるということを意味します。

現代社会において、予見不可能なことはますます減ってきています。「不確定要因」という言葉がしばしば使われます(たとえば米国大統領の決定などについて)が、「不確定な要因がある」という事実自体は把握されています。本邦国土が4枚のプレートが沈み込む交差点に位置することは義務教育の段階で教育されますし、地震予知が難しいとは言っても、M6クラスは月に1回程度、M7は年に1~2回、M8は10年に1回必ずある、ということは把握されています。死亡者が1000人を超す地震は過去120年に12回、平均して10年に1回起きており、犠牲者が100人を超す地震は5年に1回起きています(地震以外にも、ミサイル等の武力・テロの行使、小惑星の衝突など、確定的な予測はできなくともそれらが「起こりうる」こと自体は理解されているはずです)。

このことは、地震があるリスクを度外視して選択された行為は、自己責任として内部帰属される、ということを意味します。

1955年に原子力基本法を立法したこと、及びその後の原子力利用の推進は、原子力発電所及び原子力開発・研究施設等における事故の責任を、【完全に・無限に・漏れなく】決定者=政府・原子力委員会原子力安全委員会・その他法人(日本原子力発電株式会社等)が負う、ことを意味します。

このことは2011年の福島第一原子力発電所事故においても当然にあてはまります。

かかる「無限責任」を覚悟の上で原子力利用を推進したのだから、まずはその責任を果してみせるのが筋である、ということが言えます。

事故から6年経過したというのに、なぜ福島県立浪江高等学校津島校の空間線量は4μSv/hを超えているのでしょうか(2017年6月4日閲覧)。なぜ、放射線被曝への恐れを感じている国民が、存在しているのでしょうか。【無限に責任を負う】ということは、仮に事故が起こっても、このような事態を【機動的に】(フルスピード且つフルパワーで)収束させることを保証するのでなければなりません。

「事故は起こらない」と想定することは、「リスクテイク」ではありません。外部帰属です。


次にカウンセラーの立場から。

福島第一原子力発電所事故以降、放射線被曝に対する「不安」を述べる、あるいは述べることさえ怖れている人々が、一定数います。

これらの人々へのこころない言説がやむことがありません。曰く「彼らは科学的リテラシーを欠如した馬鹿である」というものです。社会学者でも、開沼博という人はそう言っています。

たしかに、当初怖れられていたほどには被害が拡大しなかったことは、不幸中の幸いとして喜ぶべきことです。

しかしながら、「不安」と「科学的リテラシー」は両立可能です。これは「不安を感じている人はじつは科学的リテラシーが高い」という主張でありません。「自分は科学的リテラシーが高いため、不安を感じない」と考えている人々の思考には、飛躍が、つまり「縮減」がある、ということです。いったい、「福島は安全である」と断言する人々のうち、どれだけの数が、「なぜ安全なのか」の機序を説明できるのでしょうか(そもそも、広い福島県を「福島」の一語で表象し得るという雑な考え自体が危険です。いったい「どの」福島なのでしょうか)。放射線物理学者でも医学者でもない人々のうち、大多数の人は、情報の精査を途中で打ち切り、それ以上の専門性には立ち入らず、「機序の説明」をアウトソースする形で「安全」という「確信」を入手しているのではないでしょうか。このような短絡=縮減も「科学的リテラシー」の一種であるとも言えますが、少なくとも「不安を持っていない」ことの必要十分な説明にはなりません。そして放射線物理学者であれ医学者であれ、科学者は「安全である」と断言することはありません。

じっさい、私は福島県中通りに居住していますが、日常生活を離れない限り、被曝に対する「不安」を感じることができません(「日常生活を離れる」とはたとえば線量の高い地域を訪問するなどです)。このことは、私の科学リテラシーが高いことを意味しません。不安を感じる「能力を欠いている」だけのことです。

高所恐怖症の人は、実際に落ちても怪我一つしないであろう高さの吊橋を渡ることができません。蛇が苦手な人は、テレビの画面に写った蛇は危害を加えてくることがないと知っていても、画面から目を背けます。

理論物理学者のニールス・ボーアにかんするエピソードは示唆的です。《ボーアの家の扉には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないと言った。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです」》(スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』)。

「私は科学的に理解した、ゆえに、不安はない」という言明の、【ゆえに】に縮減=短絡が潜んでいます。「自分は不安に感じていない」ことと、「自分は科学的に理解した」ことのあいだには、論理的必然性がありません。これを【ゆえに】で結びつけているのは信仰心と言ってもいいし、認知の「癖」と言ってもいいでしょう。不特定の代理人への委託によって成立している「信念」です。

私は、カウンセラーとして接する中で、我が国の人びと(とくに東日本)に多く見られる、共通の心的外傷の存在を、仮説として想定するようになりました。それは端的に、東日本大震災の体験であり、津波の被害の目撃であり、福島第一原子力発電所の事故の目撃です。

地が揺れ、自己の身体が揺れること自体に、本性的な意味は宿っていません。端的な【現実】への接触の記憶であり、なんとかして象徴的秩序へと組み入れなければ自我を防衛できない、そうした特異的な体験に過ぎません(ここで「本性」とはラテン語naturaのこと。社会学では「本質」essenceということが多いかもしれません)。何千体という死体を見たとしても、その光景自体には本性的な意味はありません。人間の死体など、タンパク質のかたまりにすぎないからです。原発建屋が水素爆発しても、その爆風は自分に届かないし、ましてや放射性物質は目に見えません。そこに本性的な意味は宿っていません。目撃の後、事後的に、象徴化できるか否か。現在、被爆への「不安」を抱いているか否かは、その違いの表現でしかありません。「科学的に理解すれば、不安の余地はない」という言明も防衛であれば、「科学的に理解したけれど、不安である」という言明も防衛です。社会学では「機能的に等価」と言っています。

震災から6年経って、ようやく自分があの震災に対してどのような感情・気持ちを抱えていたのか、あるいは自分に対して隠してきたのか、ようやく気づき始めた人びとが多くいます。10年たち、20年たって、ようやく、という人びとも多く現れるでしょう。

このようなことは、社会学・心理学・臨床の立場からは、自明の常識です。

そして、「原発事故の目撃」という心的外傷は、消え去ることがありません。こころが消えて無くなるのでない限り。

これらの【無限のコスト】を支払う準備があるのであれば、原子力利用を推進していけばよいでしょう。

ただし、福島第一原子力発電所事故によって生じた、無限のコストを支払ってからそうするのが筋である、と考えます。

文献

「内部帰属=リスク」「外部帰属=危険」という議論については

  • Luhmann, 1988, “Familiarity, Confidence, Trust: Problems and Alternatives”

ググればPDFが見つかるはず。他にはルーマン『信頼』『リスクの社会学』や、小松丈晃『リスク論のルーマン』など。

ニールス・ボーアのエピソード、ジジェクはどこから引いてきたのかな。ジジェクは「物神崇拝的な信仰否認がいかにしてイデオロギー的に機能するか」というもうちょっと面白い文脈でこの事例を引いているのだけど。