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長田弘の詩集のこと1

長田弘の詩について、これまでにあちこちで、いくつかのことを書いてきたけど、ぜんぜん言い足りなくって、書かないとなあ、と思って書きはじめた文章がたくさんあって、でもなんか違うんだよなあ、という感じがいつもつきまとうから、消してはいないけど「ボツ」フォルダに投げ込んでいて、実質、書いては消し、書いては消し、という状況が続いている。でも、ほんの少しでも公表したいという思いはあるので、方針を変えてみることにした。「長田弘の詩」について書こうとしているから、たぶん、書き足りない思いとか、なんか違うよなあという思いとか、発射不成功(不性交)みたいなことになっていると気づいた。「長田弘の詩」について書こうと思ったら、たぶん1年ぐらいあっても足りないんじゃないか。冷静に考えれば。そんなわけで、「長田弘の詩集」について書く。

今ものすごく気になっている長田弘の詩集は、第2詩集の『メランコリックな怪物』で、と言っても1973年に千部限定で出た思潮社版は(当然ながら)持ってなくて、1979年に出た晶文社版を持っている。これ(晶文社版)はたぶん、『メランコリックな怪物』と題される長田の詩集としてはいちばんたくさん、作品が収められている(『全詩集』の初出一覧に、「2015年新編修」というのが掲載されているのだけど、これって発売されたのだろうか? それとも、『全詩集』のために編集し直したという意味なのだろうか)。『全詩集』では、この『メランコリックな怪物』から、無視できない数の作品が削除されている。タイトルが変更されたものもあるし、他の詩集に紛れ込ませたものもあるし、他の詩集に入っていたものを『メランコリックな怪物』に紛れ込ませたケースもある。そういう点を考えると、『長田弘全詩集』という2015年に出た、まったく新しい彼の詩集といってよい「全詩集」は、奇妙な詩集だし、長田さんらしい人を食った詩集だともいえる。1979年といえば、1977年の第3詩集『言葉殺人事件』よりもあとのことで、第3詩集のあとに第2詩集がくるというのも、かっこいいと言えばかっこいい。で、今回は、『言葉殺人事件』のことを書く。(ここまで前置き)

この記事のタイトルを「長田弘の詩集のこと1」としたのは、『言葉殺人事件』について、何回かに分けて書くよ、という意味と、他の詩集についても書く機会があったら、ナンバリングを増やしていくよ、という意味とがある。できれば『言葉殺人事件』の「バラッド第一番」について、今月中に触れられればなあ、とは思っているけど。今なにげなく「バラッド第一番」と言ったけれど、『言葉殺人事件』の初版からしばらくは、「バラッド」ではなく「バラード」だった。「○○のバラッド」というタイトルの作品がたくさんあって、それはすべてもともとは初版以来「○○のバラード」というタイトルだった。たしか、ハルキ文庫から出ているアンソロジーでも、「バラード」というタイトルになっているはずだ。おそらく2015年の『全詩集』への再収録に際して、「バラッド」に変更されたのだろうと思っているのだけど、実際はもっと早い段階で「バラッド」になったのかもしれない。この辺の事情はよく分からない。僕は「バラッド」が気に入っている。

『言葉殺人事件』という詩集は、Nursery Rhymeマザー・グース)を主要な元ネタとして、古今東西の散文・韻文・歌・慣用句・引用された台詞の、長田ヴァージョンが繰り広げられる、わりと牧歌的で呑気な感じのする、カットアップ&リミックス集である。「牧歌的で呑気」と言ったのは、山田亮太の『オバマ・グーグル』があまりにストイックでヒリヒリする感じがするからで、まあ比較すべき対象ではないかもしれないけど、『言葉殺人事件』は「俺が俺が」という感じはする。いい意味で、だけど。あと、装画に使われているホセ・グアダルーペ・ポサダのリトグラフが、ラテン系の陽気な感じで、そういう見た目も印象に影響していると思う。

マザー・グース」ネタで、日本でも有名な「クックロビン」をネタにしたものが「誰が駒鳥を殺したか」。原題そのまんまである(マザー・グースに原題もへったくれもないが)。が、内容はもちろん違う。比較のため、「クックロビン」の北原白秋訳を引用する。Kindleで無料で読めるので、オススメ。

こまどりのお葬式

「だァれがころした、こまどりのおすを」
「そォれはわたしよ」すずめがこういった。
「わたしの弓で、わたしの矢羽で、
わたしがころした、こまどりのおすを」

「だァれがみつけた、しんだのをみつけた」
「そォれはわたしよ」あおばえがそういった。
「わたしの眼々で、ちいさな眼々で、
わたしがみつけた、その死骸みつけた」

「だァれがとったぞ、その血をとったぞ」
「そォれはわたしよ」魚がそういった。
「わたしの皿に、ちいさな皿に、
わたしがとったよ、その血をとったよ」
(北原白秋訳 まざあ・ぐうす)

これに続いて、甲虫、ひばり、鳩、フクロウ、などなど、みんな「自白」する。そして駒鳥の「お葬式(おともらい)」は滞りなく終了する。怖い。殺した雀がいきなり何の葛藤もなく、自白しているのが特に怖い。「本当は怖いマザー・グース」でググればわかるように、マザー・グースには意味もなく(?)残酷な歌が多い。まあ、子ども向けの民謡なので、ドリフっぽい首チョンパとか、そういうのが受けるんだろうという気もするし、古いので、死が身近だったというのもあると思う。

上に引用した部分に対応する、長田版「誰が駒鳥を殺したか」を引用する。

誰が駒鳥を殺したか

ある日、一羽の
駒鳥が殺された。

誰が殺した、
駒鳥を?

「ぼくじゃない」雀はいった。
「殺したやつだ、
殺されたやつを殺したのは」

では、誰がみた、
駒鳥が殺されるのを?

「ぼくじゃない」蠅はいった。
「殺したやつだ、
誰もみていない殺しをみたのは」

では、誰がみつけた、
殺された駒鳥を?

「ぼくじゃない」魚はいった。
「殺したやつだ、
まっさきに殺された駒鳥をみたのは」

言ってみれば、長田版は「考えオチ」というか(いや、オチないのだけど)、ひねくれている。雀が駒鳥殺害を自白しないのは分かる。いきなり物語の冒頭で犯人が自白したら、物語として成立しなくなる、ような気がする(ミステリ小説なんかでは、そういうのは少なからずありそうな気もするけど)。逆に言うと、オリジナル版の怖さは、いきなり雀が自白することで、問題の所在が別の論点に滞りなく移行する点にある。殺したのが雀なら、よろしい、では死んでいるのを見つけたのは誰だ、というふうに、なんの引っ掛かりもなく、次の論点に移る。オリジナル版の喚起する変な気持ちは、この歌が徹頭徹尾「駒鳥の死」をめぐって行われるコミュニケーションであるにも関わらず、別の何かをドキュメンタリータッチで描き出しているところにあるように思う。それは生と死に関わる人間世界の「手続き」の容赦なさとか、合理性や効率性とか、そういう荒々しさの手触りみたいなものがある。

長田版に戻ると、「ぼくじゃない」という登場人物(これはもちろん擬人化なので、人物といってよい)の台詞には、あまり意味がない。「殺したやつが殺したのだ」というトートロジーから出発して、「殺したやつが、殺されたやつが殺されるところをみたのだ」「殺したやつが、殺されたやつが殺されているのを一番はじめにみつけたはずだ」と、これら自体はトートロジーとは言えないかもしれないけど、トートロジーにぎりぎり近いようなことを積み重ねていって、どんどん情報の冗長性を高めていく。オリジナル版とは違う、別の「変な気持ち」が生じる。オリジナル版にあった、箴言・格言めいた「教え」は消えてしまって、詩的な効果としか言いようのない、奇妙な手触りを残す。この作品の最後尾には、「告示」と題された「張り紙」が貼ってあって(もちろんイラストだけど)、少しもったいぶった感じはするけど、この『言葉殺人事件』という詩集はちゃんとした詩集ですよ、という宣言にもなっている。

告示
殺されたものは
殺したものによって殺されたが
殺したものがいないのであれば
殺されたものもまたいないであろう
きみが殺されるまで

うーん、いま、「ちゃんとした詩集ですよ」と書いてしまったけれど、改めて引用してみると、この「告示」は、やはり、ちょっとやりすぎていて、というのは、格言・箴言めいた「教え」「教訓」の薫りがしてならない。読みすぎかもしれないけれど。文字通り受け取れば、駒鳥が殺されたという事実から出発したのに、殺したものがいないがゆえに、殺されたものもまたいない、という結論に至ってしまう、そのナンセンスなレトリックに面白さがある、とは言える(その意味では「ちゃんとした詩集」である)。でも、実際、世の中って、そうなってるよね、という社会批評的な教訓話にも見えてしまって、そこに僕としては、引っ掛かりを感じなくもない、ということなのだった。

(つづく)

これまでに書いた長田弘についての文章:

朗読会のお知らせ。ふくしま現代朗読会の第3回公演では、長田弘の詩を読みます。2016年10月2日(日)郡山市ホテルハマツ・ロビー(無料) 13:30~歌って踊れる3人娘は『詩の絵本』を読むみたい。

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