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【加藤知子句集『櫨の実の混沌より始む』】――定型なんて、知ったふり

春の光 (同人誌『We』第6号〔2018年9月発行〕に掲載された評論文です。掲載時タイトル:斎藤秀雄「定型なんて、知ったふり――加藤知子の俳句」)

加藤知子さんの句を読むとき、どうしても「定型とは何か」ということを考えてしまう。精確には「定型は読みの実践においてどのように機能しているのか」という問題を。

加藤作品に、通奏低音ならぬ通奏打撃音として鳴り響いているのは、跳ね回る爽快なリズムであることは、多くの読者が認めるところだと思う。たとえば第一句集『アダムとイヴの羽音』から引いてみよう。

  • 五月の青年まぶしき葬儀場
  • 柚子の実もいだどこまでも空が明るい
  • 寒椿ふたつ掌にあるたっぷりひとり
  • 怒る男春雷のように咬めり

いずれも、一般的な俳句の用語で言うならば「破調」と呼ばれるものだ。つまり一般的に「お約束」とされている「俳句は五七五」というルールを破っているのだが、ここに挙げた句には、「破調」ということばに含意されるような「逸脱している」感触がない。むしろ、一句が作品として、みずからの律を統制している感触がある。少なくない俳句読者が「いかにも五七五」というタイプの俳句作品に対して物足りなさ、退屈さを感じてしまうのは、多くの場合、作品が律を統制しているのではなく、定型によって作品が統制されている感触を得てしまうからではないか。

ここで考えてしまうのは、(A)俳句の作者にとって、〈定型意識〉がどのように作用しているのか、(B)鑑賞者が俳句作品を読むさいに、〈定型意識〉がどのように作用しているのか、というふたつの問題である。もちろん、《古典的な美学では常に、創作する、あるいは鑑賞する主体が前提とされていた〔…がいまや〕主体の概念を放棄》しなければならない(ルーマン『社会の芸術』七一頁)。作者はたんに《自分の身体を第一次的な観察者として先行させておかなければならない》(同前、五八頁)だけである。作者は作品(テクスト)にとって最初の読者であるというだけだ。しかしこの、いまや自明となった「作者の死」(バルト)を、ここでは一旦棚上げにしておきたい。筆者である私も、俳句の作者として「書いているもの」を観察する場合と、読者として「書かれたもの」を観察する場合とで、なにか微妙な違いがあるように思うからだ(いまのルーマンの引用は、我田引水に過ぎるかもしれない。ルーマンは、作者と鑑賞者とでは、観察の性質に違いがある――作者は一度きり、鑑賞は反復的――としている。作者は一度制作したなら、鑑賞者の側にまわる)。

ここで〈定型意識〉についての、みっつのパターンを想定してみよう。(1)心底「俳句は五七五」と信じている(もっとも人口が多い)、(2)「俳句は五七五」というお約束がフィクションであることを知っており、作品をもってして作品に律を統制させようとしているか(作者の場合)または作品内在的な律を発見しようと読んでいる(読者の場合)、(3)このお約束がフィクションであることを知りつつ、「あえて」信じているふりをしている。ここで注意すべきは、(1)と(3)では、ふるまいにおいて区別がつかないという点である。(3)の「あえて」の態度はシニシズムであり、シニシズムはじつは服従と変わるところがない。ジジェクヴォネガットを引いて述べるように《ふりこそが自分なのだ。だから何のふりをするか、気をつけなくてはならない》(ジジェク『汝の症候を楽しめ』六頁)。

私が言いたいのは、(2)こそが「正しい」態度である、ということではない。なぜなら、俳句作品に接するとき、どうしても「五七五」を手がかりとして読まざるを得ないからだ。このとき、やはり(2)のふるまいも、他のパターンと区別がつかないことになる。このことを検証するための事例として、第二句集『櫨の実の混沌より始む』から引いておこう。

  • いづれさざんか人体かくもけなげ
  • しづ子句とわが水位測りつつさみだれ
  • 鳥小屋に寝ていて孤独は円い
  • いわし雲さば雲変装写真かん

これらが「破調」、ないし〈いわし雲〉について言えば「句またがり」である、と我々が分かるのは、五七五という「手がかり」に照らし合わせてみるからである。分りやすいのは〈鳥小屋〉で、《鳥小屋に》という導入から五七五を期待(!)してしまうのだが、《寝ていて孤独》まで読んだところで《は円い》が四モーラ(拍)からなることに気づく。ただし、この句の場合、《は□円い》と休符を入れて五拍として読むのが「適切」であることも、同時に気づく。これらの「気づき」は、五七五をなんらかの意味で「前提」しなければ、不可能ではないか。もちろん、《鳥小屋に寝ていて 孤独は円い》とするすると読み下してもよいのだが、そのような読み方が「適切」であると感じるためにはやはり、この句が五七五ではない律を備えているということを、(手がかりを利用して)知っている必要がある。

この文章を私は、加藤句集の批評文として書いている。ゆえに冒頭に掲げた「問題」について、結論めいた回答ができるとは思っていない。けれど、今述べたような事態が、書く際にも読む際にも、俳句には必ずつきまとってしまうのではなかろうかと思う。まるで呪いのように。

句集評(ないし作家論)らしくふるまうために、最後に加藤作品にある「通奏打撃音」について述べておこう。私が第二句集でもっとも魅力を感じた句は、前述の〈いわし雲〉である。この句にある「破調」は、「句またがり」と「中八」ぐらいのものだが、なぜこうもリズムが爽快なのだろう。〈変装写真かん〉はおそらく一単語で、そうするとこの句はみっつの単語を羅列しているだけである。〈かん〉が仮名にひらかれることで何が起きているのか。

この句の不思議な感触に驚き、立ち止まって、よく(反復して)観察すると、〈変装〉と〈写真かん〉が分離可能であることに気づく。さらに、〈変装写真〉が表記によって〈かん〉から分離されるようにも感じる。これらの読みを経ると、〈写真〉が浮上してくる。この写真は、〈いわし雲さば雲〉が写った一枚の写真であろうか。複数枚であろうか。しかし雲の写真のことを考えていると、〈変装〉が謎として浮上する。こうした「読み」は、「解釈」ではない。ただ私はそのとき、翻弄されており、それを楽しんでいるのである。いわば、区別する線がくるくると移動し、単語が分離したり接続したり、読みのあいだに動的に動き回るのだ。〈形式〉について、ルーマンHow Does a Poem Mean?という詩の教科書から、次の箇所を引用している。《形式とは、本質的に言って、詩のある部分(ひとつの律動)が他の部分に対して、沈黙を横切って自分を押し出す、その仕方なのである》(ルーマン前掲、三九頁)。「律動が沈黙を横切って押し出す」とは、まさに加藤作品を形容するのにうってつけのことばではないか(この「沈黙」とは、俳句では五七や七五、または単語や文字を区別するみえない線のことだろう)。

第二句集について、私は初読、「おとなしい」「物足りなさがある」と感じた。その原因は、句集の他のパートと比較して「おとなしく」書かれているようにみえる「句日記的震災記」が後半三分の一の位置に来ており、その後再び跳ね回りを始めてから句集の末尾に至るまでの頁数が少ないことにあるように思う(ただし、「震災記」に対するこの印象は、熊本の震災の映像が、まだなまなましく私の記憶に残っているためであり、作品内在的というわけではない。個別作品的には「おとなしい」とは言えないものもある。たとえば《地響きの後のぐわしゃぐわしゃなんじゃもんじゃの葉》など)。けれど、加藤さんは、すでに第三句集の制作に取り掛かっている。このスピード感が面白い。つまり少ない頁数の最後のクライマックスは、「次回作に続く」という「引き」なのだ。このスピード感は、シリーズ物の小説や映画、アニメや漫画にはあったかもしれないが、俳句の世界では、少なくとも私は初体験である。この点も、画期的な点として、特筆すべきことと思っている

【参考文献】