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角川『俳句』掲載&うにがわえりもさんの句(2017年3月号)

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今月は、一句、採っていただきました。

朝妻力選・佳作:

角川俳句にせよ、NHK俳句にせよ、直接は会ったことがないけれども「おっ」と思う句を書くひとの名前は覚えているもので、そういう名前をみつけると嬉しくなるし、なかなかみつからないと、「おや、具合でも悪いのかしら」と心配になるし、みつけたらみつけたであまり攻めてない無難な句を書いていると「なにやってんの?」みたいな勝手なことを思う。

ところで『俳句』3月号では鬼貫青春俳句大賞の発表があった。これは15歳以上30歳未満という極めて厳しい年齢制限がある賞なので、基本的にはぼくとは関係がない世界だと思っていたのだけれど、なんとあのうにがわえりもさんが大賞を受賞なさっていた。

「あの」というのは、短歌の世界で有名な、あの、うにがわえりもさんである。作句は今回が初めてとのこと。

うにがわさんの書く短歌は、ぼくの勝手な印象だけれど、端正でキリッとしていながらも(たとえれば「オーバーレイ」のようなコントラストを高めるレイヤーを低い不透明度で丁寧に何枚も重ねたような)、最終的にガウスぼかしをかけたような、優しいイメージ(Photoshop比喩)。

たとえば:

  • 手に入れたいものばかりある 永遠になくなることのないぶどうなど うにがわえりも
  • 海岸で日の出を待つと泣けてきた 驚くほどの孤独に気づき うにがわえりも

あたりがぼくの「フェイバリット短歌.txt」テキストファイルにメモしてある。

うにがわさんのTwitterプロフィールには

  • 君がいたころの耳あか絡めとりながら野球場に一人きりで

が掲載されていて、これが代表作なのかもしれない。

そのうにがわさんが初めて書いた俳句が、「好きな女の子ができて」という題がつけられた30句で、これが今月の『俳句』に全句掲載されている(このために今月号を買っても損はない)。

感想ですが、ひとことで言うと「怖い」。もう少し言うと「少し複雑な怖さがある」。

「怖い」「怖さ」といってもいろんな怖さがあると思うのですが、たとえば神野紗希の俳句なんかは、すごく怖いですよね。有名な句だと:

  • 起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希
  • 黒板にDo your bestぼたん雪 神野紗希

あたりは、絢辻さんは裏表のない素敵な人ですどころではない、なにか、イノセントな暴力性が爆発しているような、明るく、陰鬱さのないアイヒマンのような、簡単に言えば学級委員長が同時に裏番でありそれも無自覚にやっていそうな、そんな怖さが遺憾なく発揮されているホラー句だと思う。

うにがわえりもさんの句も、そういう系列の「怖さ」なのだけれど、「少し複雑な」といったのは、神野さんの句にはどこか「もしかしたら作者は無自覚なのかもしれない(計算かもしれないけれど)」と読者に思わせるような、そのことによって死後に赤字を帳消しにしてもらえるのではないかというようなかすかな希望が、しかし無自覚だったからといってそれはそれで怖いじゃないかというなんだかわからない緩衝材が備わっている感じがするのに対して、うにがわさんの場合、その逆に、「もしかしたら作者は計算尽くなのかもしれない(無自覚かもしれないけど)」という「緩衝材外し」が備わっている感じがする。それはぼくがうにがわさんの短歌を読んだことがあるから生じる先入観なのかもしれないが。

具体的には、タイトルの「好きな女の子ができて」にもそうした怖さがあるし、

  • 願い事一つかかえて初詣 うにがわえりも
  • 初夢は君のことじゃなくてもやもや うにがわえりも
  • へびつかいみたいにマフラー巻きひとり うにがわえりも
  • 幸せなことだけを書く日記買う うにがわえりも
  • お弁当ありがとううれしい夏の日 うにがわえりも
  • 巻き寿司や日本に生まれてよかった うにがわえりも

と思わず6句も引用してしまったが、全体的にどきりとさせるような、困惑させるような、どぎつさがある。うにがわさんのすべての短歌を読んだことがあるわけじゃないけれど、短歌では下の句で優しく回収されていた部分が(それは幻想にすぎないとしても、そのような幻想を与えるのが「救い」とか「希望」と呼ばれるところのものだ)、ここでは凶器のように尖ったままになっている。とすれば、俳句という形式がそうさせているのだろうか? よくわからない。

「巻き寿司や日本に生まれてよかった」という句は、「日本人」というエスニシティーについて述べているのだろうか。単純に考えれば、「巻き寿司」など、日本に生まれなくても食べられるわけで、「日本人」というエスニシティーと、連想上の連合関係の距離が曖昧である。それとも、上五の「巻き寿司や」と中七下五には関連性がなく、いわゆる「二物衝撃」の句として書かれているのだろうか。だとすれば、あえて「日本に生まれてよかった」と作品の中で述べる必然性はどこにあるのだろうか。

短歌(和歌)は、現代に至るまで連綿と天皇制と密接な関係を保ってきていて、たとえば穂村弘のような人も歌会始の陪聴者として招待されている(内野光子「タブーのない短歌の世界を」『ユリイカ』2016年8月号)。それゆえ、短歌ではあえてナショナリスティックなふるまいをするまでもなく、「短歌をする」ことがそのまま「日本を言祝ぐ」ことを含意してしまう(この「絡め取ってくるシステム」との緊張関係から詩を生むこともまた可能だ)。

これに対して、俳句の側には、芭蕉正岡子規も「制度を破壊する」という明確な目的を意識して俳句を確立しようとした、という事情がある。その意味では、俳句にも「天皇制という磁場」とのネゴシエーションの契機は備わっている。子規没後、あまりうまくいっていないようではあるけれど。

うにがわさんの作品群について、「少し複雑な」と形容したのは、『ネットプリント毎月歌壇』2月号で、ぼくの短歌に対する谷川電話さんの選評が、頭をよぎったからだ。

また、「猥褻に~猥褻に」と、西風によって何度も放たれる「ジャブ」を表現するためとみせかけて、実際はただ「猥褻に」と言いたいだけであるかのように思われるリフレインに、並々ならぬ意気込みを感じる。

(谷川電話、『ネットプリント毎月歌壇』2017年2月号)

そして谷川氏は「計算高い変態、と言ってもいい」と述べている。これは図星である。なにが図星なのかというと、「リフレインによる反復の効果」を狙うと同時に「『猥褻に』と言いたいだけ」という狙いがある、というところまで言い当てられている。どちらかだけではなく、両方。

で、うにがわさんの上述句にかんして、「日本に生まれてよかった」という鋭利な言葉を言いたいだけであるかのように思われるのだ。蕎麦や饂飩ならともかく、「巻き寿司」を食べて「ああ、自分は日本人だなあ」と思う日本人は、おそらくいないであろう(そもそも俳句歳時記に「巻鮨」はあっても「巻き寿司」はない)。

とにかく、今後、うにがわさんが俳句を書いていくのかどうか、わからないけれども、なんだかグダグダした俳句の世界に鎌鼬のような新風が吹き込んできたことを寿ぎたい。